時代は幕末、事件・人物別の年表です

年表右欄の日付記号について
TE 4, 2,22(1833 4 11 thu)は、天保(TE)4年2月22日、西暦1833年4月11日木曜日を示します。
年号の記号はTE:天保 KO:弘化 KA:嘉永 AN:安政 MA:万延 BU:文久 GE:元治 KE:慶応 ME:明治
[ ]内の赤数字は満年齢です。日付の欄が黄色は慶喜公が江戸を離れ、京都・大坂に滞在した時期。


徳川(一橋)慶喜 Tokugawa(Hitotsubashi) Yoshinobu
慶喜公が江戸小石川の水戸藩上屋敷に生まれる TE 8. 9.29(1837 10 28sat)
慶喜が水戸に行く,水戸で養育[0] TE 9. 4.28(1838 5 21mon)
?慶喜夫人となる美賀子(延)が今出川公久の娘として生まれる TE10. 7.16(1839 8 24sat)
天保の改革布令 TE12. 5.15(1841 7 3sat)
慶喜(七郎麿)に一橋家相続の内命がある[9] KO 4. 8. 1(1847 9 10fri)
慶喜が一橋家を相続するため兄五郎麿と共に水戸を出発 KO 4. 8.15(1847 9 24fri)
慶喜(七郎麿)が一橋家を相続する[9] KO 4. 9. 1(1847 10 9sat)
慶喜(七郎麿)が一橋家に移る[10] KO 4.10. 5(1847 11 12fri)
慶喜が本丸で観菊に参加、金魚をすくう際池に落ちる[10] KO 4.10.11(1847 11 18thu)
慶喜(七郎麿)が元服し刑部卿慶喜と称する KO 4.11.16(1847 12 23thu)
    
慶喜(七郎麿)が元服し刑部卿慶喜と称する KO 4.12. 1(1848 1 6thu)
慶喜が始めて松平慶永と面談 KO 5. 1.16(1848 2 20sun)
慶喜が始めて島津斉彬と面談[10] KO 5. 1.19(1848 2 23wed)
慶喜公が一条忠香の娘千代と婚約[11] KA 1.12. 4(1848 12 29fri)
慶喜が将軍家の鹿狩(下総小金原)に参加する[11] KA 2. 3.18(1849 4 10tue)
慶喜が具足始の儀 KA 2. 5.23(1849 7 12thu)
慶喜公が袖留(そでどめ)の儀[13] KA 4. 2.28(1851 3 30sun)
慶喜元服? KA 5. 2. 5(1852 2 24tue)
慶喜が台命により千代との婚約解消[15] KA 6. 2. 6(1853 3 15tue)
慶喜は一条忠香の養女延と婚約[15] KA 6. 5.18(1853 6 24fri)
    
ペリー初来航 KA 6. 6. 3(1853 7 8fri)
慶喜が鎌倉へ遠馬[17] AN 2. 4. 5(1855 5 20sun)
慶喜の婚約者延が京都出発[17] AN 2. 9.15(1855 10 25thu)
慶喜の婚約者延が江戸城広敷に到着[18] AN 2.10.15(1855 11 24sat)
慶喜(一橋)と婚約者延(美賀子)との結納の儀,延が一橋邸に移る AN 2.11.11(1855 12 19wed)
慶喜と美賀との婚礼 AN 2.11.15(1855 12 23sun)
慶喜公と一条家の養女延(美賀)との婚儀が行なわれる AN 2.12. 3(1856 1 10thu)
慶喜公正室美賀子が女子出産(女子当日夜死亡) AN 3. 7.16(1856 8 16sat)
慶喜は斉昭幕政参与辞退を勧める書を母(文明夫人)に呈する[18] AN 3. 7.28(1856 8 28thu)
慶喜が幕府秘蔵のライフル銃を借り受ける[19] AN 4. 3.24(1857 4 18sat)
    
慶喜が文書で母(文明夫人)に斉昭の幕議参与辞退を促す[19] AN 4. 5. 8(1857 5 30sat)
慶喜は堀田正睦の依頼で斉昭への取りなしを依頼される[20] AN 5. 1. 1(1858 2 14sun)
慶喜が堀田備中守正睦の懇願で小石川邸に行き烈公を諌める AN 5. 1. 2(1858 2 15mon)
慶喜が宿継奉書届けで井伊直弼を詰問 AN 5. 6.23(1858 8 2mon)
慶喜は登城差し止め(井伊直弼による処分) AN 5. 7. 5(1858 8 13fri)
慶喜が女中乗物で小石川藩邸に入る[20] AN 5. 9. 8(1858 10 14thu)
横浜で貿易開始 AN 6. 6. 2(1859 7 1fri)
慶喜が隠居/慎みを命ぜられる[21] AN 6. 8.27(1859 9 23fri)
慶喜は謹慎を免じられる,面会,交通は依然禁止[22] MA 1. 9. 4(1860 10 17wed)
和宮入輿(家茂との婚礼) BU 2. 2.11(1862 3 11tue)
    
慶喜が面会,交通を許される[24] BU 2. 4.25(1862 5 23fri)
慶喜が一橋家再相続を命ぜられる[24] BU 2. 7. 6(1862 8 1fri)
慶喜公が将軍後見職となる BU 2. 7. 6(1862 8 1fri)
慶喜/松平春嶽/島津久光が大原重徳の旅館で種々論談 BU 2. 7.23(1862 8 18mon)
慶喜が横井小楠を召し将軍上洛につき意見を聞く BU 2.U8.12(1862 10 5sun)
慶喜に将軍上洛供奉の内命がある[24] BU 2.U8.24(1862 10 17fri)
慶喜が日本のみ鎖国は不可で条約済を幕議で主張[25] BU 2. 9.30(1862 11 21fri)
慶喜が松平春嶽より政権返上の覚悟を問われる BU 2.10. 8(1862 11 29sat)
慶喜が将軍後見職の辞表提出 BU 2.10.22(1862 12 13sat)
慶喜が将軍後見職の辞表撤回 BU 2.10.26(1862 12 17wed)
    
慶喜が再度将軍後見職の辞表を提出 BU 2.11.15(1863 1 4sun)
慶喜が水野忠精らの登城要請を拒否 BU 2.11.24(1863 1 13tue)
慶喜がようやく登城(攘夷奉勅拒否) BU 2.11.26(1863 1 15thu)
慶喜が松平春嶽を訪問,慶喜の率兵大坂海岸防御を相談 BU 2.11.28(1863 1 17sat)
慶喜主催で三条実美,姉小路公知両勅使を清水の館に招く BU 2.11.29(1863 1 18sun)
慶喜が下坂の台命を受ける BU 2.12. 4(1863 1 23fri)
慶喜が江戸を出発京都へ向かう BU 2.12.15(1863 2 3tue)
慶喜公(将軍後見職)が入京する BU 3. 1. 4(1863 2 21sat)
慶喜が東本願寺に入る BU 3. 1. 5(1863 2 22sun))
慶喜公が始めて孝明天皇に拝謁[25] BU 3. 1.10(1863 2 27fri)
    
慶喜が初めて学習院に上がる BU 3. 1.13(1863 3 2mon)
慶喜が浪人に言路を開く松平容保の策に賛成する(従来反対) BU 3. 2. 3(1863 3 21sat)
慶喜が鷹司関白より攘夷期限奏聞の命を受ける BU 3. 2. 7(1863 3 25wed)
慶喜が攘夷期限確定の勅命を受ける BU 3. 2.11(1863 3 29sun)
慶喜(将軍後見職),松平容保(守護職)が攘夷期限奏聞を協議 BU 3. 2.11(1863 3 29sun)
慶喜,松平春嶽らが上京途中の徳川慶篤の江戸帰還を言上 BU 3. 2.26(1863 4 13mon)
慶喜は将軍名代として参内し小御所において天皇に拝謁する BU 3. 3. 5(1863 4 22wed)
慶喜は関白鷹司輔熙に朝廷の諸藩直命を抗議する BU 3. 3. 8(1863 4 25sat)
慶喜が将軍滞京の延期を建白 BU 3. 3.10(1863 4 27mon)
慶喜/将軍家茂等が参内し天盃と御馬を賜う BU 3. 4. 2(1863 5 19tue)
    
慶喜が関白を訪問し行幸中止を説得する BU 3. 4. 5(1863 5 22fri)
慶喜が攘夷談判のため京都を出発する BU 3. 4.22(1863 6 8mon)
慶喜一行が熱田到着(関白鷹司輔煕に後見職辞職の書簡を出す) BU 3. 4.26(1863 6 12fri)
慶喜公が攘夷の実行を評決するため京都から神奈川に到着 BU 3. 5. 8(1863 6 23tue)
慶喜が江戸到着 BU 3. 5. 8(1863 6 23tue)
慶喜は攘夷不能を理由とし関白鷹司輔煕に後見職の辞表を呈出 BU 3. 5.14(1863 6 29mon)
慶喜が再度将軍後見職の辞表を関白に提出 BU 3. 5.24(1863 7 9thu)
慶喜は3度目の将軍後見職辞退を関白に要請する BU 3. 6.24(1863 8 8sat)
薩英戦争 BU 3. 7. 2(1863 8 15sat)
慶喜に上京の達しがある BU 3. 7.19(1863 9 1tue)
慶喜が弟余九麿(喜徳)を養嗣子とする[25] BU 3. 8. 3(1863 9 15tue)
    
8・18政変 BU 3. 8.18(1863 9 30wed)
慶喜公が朝廷より上京を命ぜられる[26] BU 3. 10.07(1863 11 17tue)
慶喜が蟠竜丸で京へ向かう、浦賀で順動丸に移乗 BU 3. 10.26(1863 12 6sun)
慶喜が順動丸で兵庫到着 BU 3. 11.12(1863 12 22tue)
慶喜は浦賀で順動丸に乗り換え兵庫に到着 BU 3. 11.20(1863 12 30wed)
慶喜が海路京都東本願寺に入る BU 3. 11.26(1864 1 5tue)
慶喜らが国事参与となる BU 3. 11.29(1864 1 8fri)
慶喜が京都小浜藩邸を宿所とする BU 3. 12.21(1864 1 29fri)
慶喜と島津久光が鎖港の件で討論する BU 4. 1. 2(1864 2 9tue)
慶喜/島津久光/松平春嶽/伊達宗城が長州処分について討論 BU 4. 1. 2(1864 2 9tue)
>陪席:小松帯刀,高崎正風,中根雪江  
    
慶喜らが国政参与となる BU 4. 1. 5(1864 2 12fri)
慶喜/春嶽/伊達宗城らが元勧修寺宮の還俗を話し合う BU 4. 1.20(1864 2 27sat)
慶喜/春嶽/伊達宗城らが二条城で横浜鎖港談判使節を協議 BU 4. 2. 2(1864 3 9wed)
第一次征長準備発令 BU 4. 2.11(1864 3 18fri)
慶喜は政事後見職をやめ禁裏御守衛総督、摂海防備指揮に新任 GE 1. 2.25(1864 4 1fri)
慶喜が禁裏御守衛総督/摂海防禦指揮任命の沙汰書を受ける GE 1. 3.24(1864 4 29fri)
慶喜は後見職を免ぜられ禁裏守衛総督となる[26] GE 1. 3.25(1864 4 30sat)
慶喜の「朝廷と諸藩の仲介系統」が評決となる GE 1. 4. 5(1864 5 10tue)
慶喜が佐久間象山を召し諮問する GE 1. 4.12(1864 5 17tue)
慶喜が摂海巡視のため大坂に下る GE 1. 5. 9(1864 6 12sun)
  
慶喜公に朝廷より「叡慮を安んずる様」沙汰を下す GE 1. 5.29(1864 7 2sat)
慶喜は諸侯を集め長州藩処分について評議 GE 1. 7. 6(1864 8 7sun)
慶喜は京都守衛総督として東寺に本陣を置く GE 1. 7.16(1864 8 17wed)
禁門の変 GE 1. 7.19(1864 8 20sat)
慶喜が禁裏守衛総督として長州征伐朝命を受ける GE 1. 7.23(1864 8 24wed)
慶喜が征長総指揮として松平慶永を予定し上京を要請する[26] GE 1. 7.26(1864 8 27sat)
将軍家茂長州親征を宣言 GE 1. 8. 2(1864 9 2fri)
四カ国艦隊下関砲撃開始 GE 1. 8. 5(1864 9 5mon)
第一次征長出陣命令 GE 1. 8. 13(1864 9 13tue)
慶喜は勅許を得て天狗党討伐のため京都を出立する[27] GE 1. 12. 3(1864 12 31sat)
慶喜が天狗党討伐のため琵琶湖北へ着陣 GE 1. 12.10(1865 1 7sat)
    
慶喜(禁裏守衛総督)は大津を出発し海津へ向かう GE 1. 12.12(1865 1 9mon)
慶喜が天狗党討伐(海津)から京都にもどる GE 1. 12.26(1865 1 23mon)
慶喜が政務輔翼を命ぜられる GE 2. 1.10(1865 2 5sun)
慶喜/松平容保/松平定敬の東下を老中本荘宗秀が要請する GE 2. 2. 6(1865 3 3fri)
第二次征長軍江戸出発 KE 1. 5.16(1865 6 9fri)
慶喜/徳川茂徳が京を発ち大坂へ向かう KE 1. 6. 2(1865 7 24mon)
慶喜/容保/徳川茂徳が大坂で講武所銃隊などを視察 KE 1. 6. 7(1865 7 29sat)
慶喜/松平容保らが参内し長州処分幕議奏上(吉川経幹の招致) KE 1. 6.17(1865 8 8tue)
慶喜は軍艦及び武器の購入依頼をロッシュに依頼する[27] KE 1. 8. 2(1865 9 21thu)
慶喜/容保/松平定敬が参内し長州征討勅許奏請を予告する[28] KE 1. 9.20(1865 11 8wed)
慶喜が夜,将軍命により京都を発ち大坂へ向かう[28] KE 1. 9.25(1865 11 13mon)
    
慶喜公が条約勅許奏請準備のため京都に戻る KE 1. 9.27(1865 11 15wed)
慶喜が夕方大坂から京に入り参内し翌日将軍参内を奏上 KE 1. 9.28(1865 11 16thu)
慶喜が伏見で将軍家茂に面会し将軍職辞職撤回を求める KE 1. 10. 3(1865 11 20mon)
慶喜/松平容保/板倉勝静らが小御所で長州処分勅許を得る KE 2. 1.22(1866 3 8thu)
慶喜は松平伯耆守、阿部豊後守より江戸帰還を要請されるが拒否 KE 2. 2.11(1866 3 27tue)
慶喜(禁裏守衛総督)が将軍家茂を見舞う KE 2. 7.17(1866 8 26sun)
慶喜が大坂城で将軍家茂を見舞い京都へ戻る KE 2. 7.18(1866 8 27mon)
    
将軍家茂が大坂城内で急死 KE 2. 7.20(1866 8 29wed)
慶喜公が徳川家相続の意向を示す KE 2. 7.27(1866 9 5wed)
?慶喜が徳川家相続[28] KE 2. 7.29(1866 9 7fri)
慶喜は禁裏守衛総督、摂海防御指揮を辞する KE 2. 7.30(1866 9 8sat)
慶喜は二条城に旗本を集め長州征伐を宣言する KE 2. 8. 1(1866 9. 9sun)
慶喜が長州への出征宣言 KE 2. 8. 5(1866 9 13thu)
慶喜が禁裏守衛総督・摂海防禦指揮を辞任する KE 2. 8. 7(1866 9 15sat)
慶喜が大討込と称し節刀を賜う(長州追討の勅諚) KE 2. 8. 8(1866 9 16sun)
  
慶喜の大討入り出発予定日 KE 2. 8.12(1866 9 20thu)
慶喜は長州大討入を中止する KE 2. 8.14(1866 9 22sat)
慶喜公が関白二条斉敬に休戦の勅命を請う KE 2. 8.14(1866 9 22sat)
慶喜公が征長軍解兵を願い出,勅許される KE 2. 8.16(1866 9 24mon)
慶喜が京都を立ち大坂城に入る KE 2. 8.19(1866 9 27thu)
慶喜公が徳川宗家を相続 KE 2. 8.20(1866 9 28fri)
慶喜公は親書で鍋島閑叟の上京を促す KE 2. 8.30(1866 10 8mon)
    
慶喜公が入京(御池御殿)[28] KE 2. 9. 5(1866 10 13sat)
慶喜の参内妨害ならずとの勅命がある[29] KE 2. 10.15(1866 11 21wed)
慶喜が二条城で諸侯に長州処分の意見を聞く KE 2. 11. 7(1866 12 13thu)
慶喜が池田茂政/前田慶寧/松平定安らに長州処分の意見を求める KE 2. 11. 8(1866 12 14fri)
慶喜公が第15代将軍の宣下を受ける[29] KE 2. 12. 5(1867 1 10thu)
慶喜が疱瘡にかかった孝明天皇を見舞う KE 2. 12.21(1867 1 26sat)
孝明天皇崩御 KE 2. 12.25(1867 1 30wed)
慶喜がフランス公使ロッシュと会見 KE 3. 1.27(1868 2 20thu)
慶喜はロッシュと面会するため京都を出発し大坂到着 KE 3. 2. 5(1867 3 10sun)
慶喜と仏公使レオン・ロッシュが大坂城において会談 KE 3. 2. 6(1867 3 11mon)
  
慶喜と仏公使レオン・ロッシュが大坂城において会談 KE 3. 2. 7(1867 3 12tue)
慶喜が兵庫開港につき主要9藩に諮問し、藩主上洛を要請 KE 3. 2.19(1867 3 24sun)
慶喜と仏公使レオン・ロッシュが大坂城において会談 KE 3. 2.20(1867 3 25mon)
慶喜が兵庫開港の勅許を奏請(不許可) KE 3. 3. 5(1867 4 9tue)
慶喜が大坂城白書院にてパークスを非公式に引見 KE 3. 3.25(1867 4 29mon)
慶喜がパークスに三十六歌仙の「伊勢」を贈る KE 3. 3.25(1867 4 29mon)
慶喜がオランダ公使を内謁 KE 3. 3.26(1867 4 30tue)
慶喜がフランス公使を内謁 KE 3. 3.27(1867 5 1wed)
慶喜が大坂城で英蘭仏の順で公式謁見 KE 3. 3.28(1867 5 2thu)
慶喜が兵庫開港を宣言する KE 3. 3.28(1867 5 2thu)
    
慶喜公が米国公使ファルケンボルグを引見 KE 3. 4. 1(1867 5 4sat)
>米国使節通訳として大人気であった米田桂次郎(トミー)が同席  
慶喜は薩因備三藩に対する警備捜索命令を撤回させる KE 3. 4.18(1867 5 21tue)
慶喜が摂政二条斉敬に議奏/伝奏罷免を抗議し撤回要求 KE 3. 4.18(1867 5 21tue)
慶喜が二条斉敬に禁裏護衛を幕府経由なしで決めたことに抗議撤回 KE 3. 4.18(1867 5 21tue)
慶喜が大坂城でオランダ公使ポルスブルックと会見 KE 3. 4.26(1867 5 29wed)
慶喜が米国公使ワンケンボルグと大坂城で会見 KE 3. 4.29(1867 6 1sat)
慶喜が兵庫開港の勅許を得るため参内 KE 3. 5.23(1867 6 25tue)
慶喜が長州処分寛典を条件に兵庫開港の勅許を得る KE 3. 5.24(1867 6 26wed)
慶喜に鍋島閑叟が長州処分寛大を要請する(二条城) KE 3. 7.19(1867 8 18sun)
慶喜がフランス公使レオン・ロッシュを大坂城に引見 KE 3. 7.25(1867 8 24sat)
慶喜がフランス艦を訪問 KE 3. 7.25(1867 8 24sat)
  
慶喜公がロッシュを大坂城で引見 KE 3. 7.26(1867 8 25sun)
慶喜がイギリス公使パークスを大坂城に引見 KE 3. 7.27(1867 8 26mon)
慶喜が内大臣となる  
慶喜は自ら従前の若州邸(小浜藩邸)より二条城に移る KE 3. 9.21(1867 10 18fri)
慶喜が内大臣に任ぜられる[29] KE 3. 9.21(1867 10 18fri)
大政奉還 KE 3.10.14(1867 11 9sat)
慶喜が参内,小御所で議奏・伝奏に政権奉還の旨趣を述べる[30] KE 3.10.15(1867 11 10sun)
慶喜公が政権奉還の勅許を受け暁7ツ退出 KE 3.10.16(1867 11 11mon)
慶喜公がロッシュへ親書を認める KE 3.10.20(1867 11 15fri)
>慶喜から外国使臣への親書はロッシュのみ  
慶喜は松平越中守定敬を参内させ将軍職辞退の上書を提出する KE 3.10.24(1867 11 19tue)
慶喜に諸藩上京まで従来通りの沙汰が朝廷より下る KE 3.10.26(1867 11 21thu)
    
慶喜公に対して長州家老の上坂見合わせの朝廷沙汰がある KE 3.11. 9(1867 12 4wed)
慶喜公に朝廷より下問書が下される KE 3.11.15(1867 12 10tue)
>朝権は一途に出るべき方法は?  
慶喜は松平容保に長防処置につき堂上に立ち入らないよう指示 KE 3.12. 5(1867 12 30mon)
慶喜が薩長土芸のクーデター計画を知る[30] KE 3.12. 6(1867 12 31tue)
王政復古の大号令 KE 3.12. 9(1868 1 3fri)
慶喜/大河内正質・竹中重固(討幕未決批判)が善後策協議 KE 3.12.11(1868 1 5sun)
慶喜は松平容保、松平定敬らを従え二条城を出大坂城へ向かう KE 3.12.11(1868 1 5sun)
慶喜が大坂城に入る KE 3.12.12(1868 1 6mon)
慶喜が大坂城に到着(PM4:00) KE 3.12.13(1868 1 7tue)
    
慶喜公らが大坂城に入る KE 3.12.13(1868 1 7tue)
慶喜は大坂城で仏公使ロッシュ、英公使パークスと会見 KE 3.12.14(1868 1 8wed)
慶喜は大坂城で各国公使を引見 KE 3.12.16(1868 1 10fri)
慶喜公の呼称を上様、御台所は御簾中となる KE 3.12.16(1868 1 10fri)
慶喜は「挙正退奸の表」を奏聞(奏上)する KE 3.12.17(1868 1 11sat)
慶喜が大坂城で英国公使と会見 KE 3.12.21(1868 1 15wed)
慶喜が挙正退奸の上表をとり下げる KE 3.12.23(1868 1 17fri)
慶喜の辞官納地に関する朝議 KE 3.12.24(1868 1 18sat)
慶喜は辞官納地の承認/請書を提出 KE 3.12.28(1868 1 22wed)
>人心折り合いで交付したまでで,正面の御請には関係なき..  
    
慶喜公自ら出馬を宣言 KE 4. 1. 6(1868 1 30thu)
慶喜/松平容保/板倉勝静らが米国艦で一夜を明かす KE 4. 1. 6(1868 1 30thu)
?慶喜は各国公使を引見 KE 4. 1. 7(1868 1 31fri)
慶喜追討令が出る[30] KE 4. 1. 7(1868 1 31fri)
慶喜が米国艦に居ることを山口直毅が開陽丸沢太郎左衛門に連絡 KE 4. 1. 7(1868 1 31fri)
慶喜一向を乗せた開陽丸は大坂沖を出帆 KE 4. 1. 7(1868 1 31fri)
慶喜一向を乗せた開陽丸は大坂沖を出帆 KE 4. 1. 8(1868 2 1sat)
慶喜らが夕刻品川沖に着く KE 4. 1.11(1868 2 4tue)
慶喜は金子200両で小舟を雇い開陽丸を下船し浜御殿に入る KE 4. 1.12(1868 2 5thu)
慶喜が天璋院に鳥羽伏見の事情,東帰の次第を報告する KE 4. 1.12(1868 2 5thu)
    
慶喜に一橋系若手将校が官軍迎撃作戦などを建白 KE 4. 1.14(1868 2 7fri)
慶喜公が天璋院のとりなしで初めて和宮と面会 KE 4. 1.15(1868 2 8sat)
慶喜が在府諸藩主を集め恭順・謹慎を公表 KE 4. 1.19(1868 2 12wed)
慶喜が芝の会津藩邸に傷病者を見舞う KE 4. 1.20(1868 2 13thu)
慶喜が仏公使ロッシュと会見(ロッシュ幕府反撃を建白) KE 4. 1.27(1868 2 20thu)
慶喜が松平春嶽に恭順の態度を表明する KE 4. 2. 5(1868 2 27thu)
慶喜が松平容保の登城を禁止する KE 4. 2. 8(1868 3 1sun)
慶喜が小石川邸に本圀寺派藩士を派遣(市川派役人の一掃) KE 4. 2.10(1868 3 3tue)
慶喜公が上野寛永寺に閉居[30] KE 4. 2.11(1868 3 4wed)
慶喜は江戸城を出て上野東叡山寛永寺大慈院の葵の間で謹慎 KE 4. 2.12(1868 3 5thu)
    
慶喜は朝廷への謝罪周旋を輪王寺宮公現法(ほっ)親王に依頼する KE 4. 2.12(1868 3 5thu)
徳川慶喜護衛の精鋭隊(頭取山岡鉄太郎、松岡万ら)が結成 KE 4. 2.12(1868 3 5thu)
慶喜が謝罪歎願を上京して伝達,を覚王院に依頼する KE 4. 2.15(1868 3 8sun)
慶喜は大慈院にて勝海舟に面会 KE 4. 2.25(1868 3 18wed)
慶喜が山岡鉄太郎/大草多喜三郎に小田原出張を命ずる KE 4. 2.27(1868 3 20fri)
慶喜公正室美賀子が小石川水戸藩邸に移る KE 4. 4. 6(1868 4 28tue)
江戸城開城 KE 4. 4.11(1868 5 3sun)
慶喜は上野寛永寺の塔頭大慈院を発ち水戸へ向かう[30] KE 4. 4.11(1868 5 3sun)
慶喜が水戸に到着、弘道館の一室で謹慎 KE 4. 4.15(1868 5 7thu)
慶喜が水戸を出発し駿府へ向かう KE 4. 7.19(1868 9 5sat)
慶喜は榎本武揚の軍艦蟠竜丸で銚子を出発し清水港に向かう KE 4. 7.21(1868 9 7mon)
慶喜公が駿府の宝台院に入る[30] KE 4. 7.23(1868 9 9wed)
戊辰戦争終結 ME 2. 5.18(1869 6 27sun)
徳川慶喜公が謹慎を解かれる[32] ME 2. 9.28(1869 11 1mon)

追加・修正/2017.09.25(1110)

項目は「幕末資料庫」より随時取り出し、この年表に追加しています。出典は幕末資料庫に記載されている場合があります。


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