幕府がいかにポルトガルを嫌っていたか。
幕府が元禄4年(1691)にオランダ・カピタンへ示した日蘭関係のおつきあいの基本条目があります。
御条目
一 阿蘭陀人事、御代々日本商売被仰付、毎年長崎へ着岸仕候、従此(これより)以前如被仰出候、奥南蛮人(ポルトガル人)と通用仕間敷候、若、致入魂(じっこんいたし)候之由、何之国より申上候はば、日本渡海可被成御停止候、勿論奥南蛮人之族(やから)、船に乗せ来る間敷候事
幕府はオランダに対して、ポルトガル人と付き合うなと要請し、もし入魂であれば来航を禁止すると言っております。強烈な要請です。加えてポルトガル人はオランダの船にも乗せるなと言っております。
オランダにとっては余計なお世話と思われますが、日本は当時の国際的強国のオランダに対して、実に大きな態度に出ております。
一 不相替日本為商売渡海仕度奉存候はば、奥南蛮人之儀に付、被為聞召上可然儀有之候はば、毎年阿蘭陀船渡海之事に候間、可申上候、新敷南蛮人手に入り、切支丹宗門に成候国々有之ば、渡海筋の儀は可承候、見及、聞及候はば、長崎奉行人まで可申上候事
日本と貿易を継続したいならば、ポルトガルについての情報を報告すべきである。日本がオランダに対して、このように強く言えるのは何故でしょうか。
一 阿蘭陀人往来之国々之内、南蛮人と出合候国も可有之候間、弥(いよいよ)奥南蛮人と通用仕間敷候、若、出合之国有之ば、其国之名、具(つぶさ)に書注之、毎年着岸之カピタン長崎奉行人まで可差上之者也
ポルトガルと交際する国があれば、その国の名前を長崎奉行まで報告するようにと要請しています。
以上を見ても幕府が異常なまでにポルトガルを嫌っていたかがわかります。徹頭徹尾という様子です。
当時、幕府はオランダ、ポルトガルを評価できる知識をどの程度持っていたのでしょうか。幕府が諸外国を評価する基準は、「島原の乱」以来、キリスト教の国であるかどうかであったと考えられます。キリスト教の国であるかどうかは、幕府の役人がオランダやポルトガルへ出張して自分の目で確かめれば一目瞭然でしょうが、諸般の事情により出張したという様子はないようです。自分の目で確認せず、オランダやポルトガル側の言い分で判断したのかもしれません。
オランダは寛永18年(1641年)頃以来、日本に渡航するオランダ船内にある個人用の聖書等、キリスト教関係物まで船内の箱に密封するか海中に投棄し、幕府役人の目に止まらぬよう細心の注意を払っていた
。「勝ち組が消した開国の真実、鈴木荘一、かんき出版」
加えて、ハリスの日記に次のような記述があります。
オランダ人と結んだ追加条項に挿入されてる奇妙な条項は、すなわちー「オランダ人は彼ら自身の宗教、或はキリスト教の礼式を、出島の彼らにより占有されている建物内で行う権利を有するであろう」というのである。この条項から見ると、「オランダ人の宗教」は、キリスト教ではないかのような印象をうけるであろう。
オランダは徹底してキリスト教とは無縁であることを印象づける最新の注意を払っていたようです。
これでは本当のことが分かりません。まして当時はオランダが対日貿易独占に力を注ぎ、他国排撃策をとっていたのですから、少々の勇み足もあったでしょう。
ペリー提督の日本遠征記では、オランダの他国排撃策に関連する記述があります。
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オランダはポルトガルを追い出すためにできるだけのことをやった。
オランダは島原の乱(ポルトガル派と思われる)で島原砲撃に援助した。
オランダは英国のチャールス2世の皇后がポルトガル王の姫であることを日本政府に報告した。
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オランダが自主的にやったのか、幕府の強烈な要請の結果なのか、ペリー提督の耳にも、幕府のポルトガル嫌いが届いています。
ところで、対日貿易にこだわったオランダのメリットは何でしょうか。
幕末までの永い間、長崎出島という限定された場所にあり、拡大していないことを考えると、
オランダの対日貿易はどのような意味を持つのでしょうか。
参考資料:片桐一男著「江戸のオランダ人」中公新書、勝ち組が消した開国の真実、鈴木荘一、かんき出版
ペルリ提督日本遠征記(一)岩波文庫、ハリス日本滞在記(中)坂田精一訳
2005/11/12,2006/11/06,2007/3/15
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