A Topic of the Essays12

心情的には分かりますが、
北へ北へ、忠節を尽くそうとする心根が、
北の人たちを戦場に追いやったことにはならないでしょうか。
とすれば忠節とは悲しい性のように思えます。
 


慶応4年戊辰の4月には江戸城が明け渡され、すでに幕府は「旧幕府」と言われる状況になりましたが、旧幕府の抗戦派は江戸城の奪還ではなく、北へ、その軍事力を移動させます。北に軍事力が集結することは、新政府にとっては脅威であり、潰滅せざるを得なくなります。

 北の軍事力は何をするためのものなのでしょうか、新政府へ単なる反抗するものなのか、あるいは幕府への忠節を尽くすものなのか、あるいは東日本政府を構築しようとしているのか、活動の基本となる先の展望・施策が良く見えません。まず戦闘に勝つ、これが前面に出ているようです。
 
先の展望がない戦闘は北の大地に生活する人達の理解を得ることは難しいでしょう。何のために自分たちの家が焼かれ、田畑が蹂躙されるのか、切実 な問題です。

戦闘が厳しい局面になると、「人手が足りない、地元民を徴発せよ」「戦術のため橋を壊せ」など次々と出てきます。戦闘指揮者は勝つための施策を打つことが仕事ですから。

参考資料によると、会津への関門母成峠付近の戦闘では、会津への通路である石筵村の人々が種々な形で戦闘に巻き込まれています。
「中にも房成(母成)口は会(会津)の国境石筵村の猟師次郎七、休之助を以て及探索候処・・」土地勘を買われての出動です。

また、石筵村名主平十郎の報告には、 仙台、二本松、相馬藩のために人馬継立の手配等が課せられ「私始め村中一同必死難渋罷在候」とあり、また「会兵に放火被致、五十三軒の村残らず焼亡・・・」とも報告されています。
郡山周辺では
4,000人(16才から59才の男)と1,700頭の馬が動員されました。これは相当な量と思います。

石筵村では会津に放火されたこともあり、新政府側に協力しておりますが、この協力者が猪苗代の農民により殺害されたようです。猪苗代では新政府側が放火され家を焼かれ、食料・財産等を強奪されていたためと言われます。そして動員された郡山の人足は会津若松で掠奪の限りを尽くしたようです。
新政府の軍隊と旧幕府の軍隊が代わるがわる、その軍備を嵩(かさ)に圧力をかけるのですから、たまったものではありません。その場その場で臨機応変に対処しなければならない切羽詰まった状況です。家が焼かれるかどうかの瀬戸際です。そして肉体的にも精神的にも疲れ、人としての理性が失われて 行きます。まして、自分たちが将来どうなる、どのような方向になるのかの希望的情報がない状態では無理もないと思われます。

 上記にように非常にどろどろした話とは別に次のような話もあります。

 「旧幕府、三嘉保丸の難破談、函館始末其二」によると、

房総の銚子では、榎本艦隊の三嘉保丸より上陸した者は捕らえられる状況でしたが、上陸した、とある二人は「今や飢渇に堪えず兔まれ角まれ火を目当に家ある方へ行き腹をもこしらへ足をも休めむと終に火光に近つき見れば掛ケ行灯に黒々と鰻屋とこそ書きたれ、をりしも若者が行灯をはづし店の戸たてむと為す時なりければ山田氏等は辞を卑うし腰折り屈め何にても宜しければ夜食をこしらへてと如何に求むれども聞き入れず物騒なる今日此頃いつまで店を開けおく可きと、推し戻しても戸を閉さむと為す時、奥より老婆の声らしきが、お客様を早く御通し申しな、」とあります。

「やがて老婆は階子を昇り来り熱燗の徳利、大串の鰻猪口杯洗と運びあげ二人が前に並べ置き少し下りてハラハラと涙を流し、おいとほしや殿様方は徳川様の御旗下にあらせられませう、婆々は三嘉保丸の難船と聞き浜辺へ参りて見ますれば目もあてられぬ悲しい御姿に腰がぬけました、世が世で御座りませうならと後は涙と水鼻に声も出でざる意外の話、」と続きます。

「老婆の倅は来れり静に障子をあけ両人が前に畏まり、委細は母より承はりました徳川様の御恩は誰も同じこと御安心を願ひます御案内を致して御迯せ申しませう少しでもお楽に御休み被下と、」

と至れり尽くせりです。
「裏手へ出れば舟一艘蘆の間にもやい置き、船頭一人二十ばかりの甲斐々々しきが立ち居たり、送り来りし亭主は船頭に大事に御供せよと云ひながら、この野郎は慥で御座いますと一から十まで抜ケ目なき心配り、されど四五間は蘆を分け四方に心を配りつつ船に乗りたり、ユラ々々と河中へ漕ぎ出しモウ大丈夫と大息つき両人は全く蘇生せしが如く感ぜしとかや、四方の景を眺むれば実に大利根の水洋々と流れほがら々々々と明け行く景色、あまつさへ如才なき亭主の注意重箱三重置れたり、上は生鮭の照り焼き中は漬物に浸し物、下は朝飯傍に酒さへ一ト徳利備へたり、昨日にかへて今日の楽しさ生涯に二度とはあらぬ愉快なりしとぞ。」

腹を空かし食べ物を探した三嘉保丸から上陸した二人は、翌日はお酒付きの朝食です。なんとホントでしょうか。
銚子は幕府直轄の天領のようですから、このようなこともありえたかもしれません。

最後になんとも情けない話があります。塚原渋柿という人の回顧談です
彼等(東北への脱走兵など)が当時の肝裏に在るものは「残念」という二字きりで、一王の化を擾るの、朝命に反抗する
のと、そんな料簡とては毫末もない。それでまた一方の主家からしては彼の「恭順」で、心得違いのないようにという厳重
な沙汰は出る。
官兵に敵対するのは予(慶喜公)が首に刃を擬(あ)つるも同様だ。などの畏怖しい書付も出る。けれども、ただ右の「口
惜しい」で前後無茶苦茶に飛び出したので。

朝廷からはもとより賊、然して主家の眼からは不忠の臣、謂わば勝ってもその命に背いた咎で、切腹といわれても一言も
ない、負ければ当然縛り首、ちと落ち着いた料簡から考えると、何の趣意で誰のために、この命がけの難渋な戦争をする
のか、わからぬといえば実にこれほどわからぬ事はない。蓋し古今東西の歴史の中に、こんな馬鹿げた戦争をした者が、
あったないかは知らぬが、まあないでしょう。

この塚原渋柿(直太郎)という人がどういう人が分かりませんが、幕府側の人のようです。この様に言われると、なんとも返す言葉がありません。

 

参考資料:奥羽列藩同盟、東日本政府樹立の夢(星亮一.中公新書)、旧幕府.三嘉保丸の難破談.函館始末其二(マツノ書店)、幕末の武家(柴田宵曲編)
2004.09.14/