Topic11 武家娘と群馬富岡の製糸工場


Essay60で上州群馬の桐生に工場制手工業が芽生えた話をしましたが、明治5年、同じ群馬の冨岡に官営の製糸工場が創立しました。
日本最初の本格的な工場制機械工業です。
この工場で働いていた女性、和田(旧姓横田)英子さん(旧松代藩士の娘)の記録が残っております。


製糸工場を作ったのですが、従業員がなかなか集まらなかったのです。

工場では「血をとられるの、あぶらをしぼられるのと大評判になりまして・・・」とあります。
工場とは何かが分かりませんし、工場はフランス人による指導で進められていることも流布したと思いますので、この様な評判があったのでしょう。..........この辺のお話は「異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい」でご覧下さい。

横田英子さんの住む信州松代では、養蚕がさかんな地でもあり、県庁から13才から25才までの女子を 富岡製糸場へ出すようにとの達しがありましたが、「人身御供にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。」と言う状況です。
「区長(横田英子の父)のところにちょうど年ごろの娘があるに出さぬのが何よりの証拠だ」とも言われるようになってきましたので、横田英子が率先、工場へ行くことになったようです。

何で若い女性を募集したのでしょうか。男性でも悪くはないと思いますが、この辺の事情は非常に重要と思われますのでいずれ調査してみたいと思います。(何せ最先端のハイテク工場です)。

工場勤務へ両親の忠告

若い娘が長野松代から群馬冨岡へ働きに出るのです。親としては心配です。

両親の忠告は、
父:「・・冨岡御製糸場へつかわすについては、よくつつしみ、国の名、家の名を落とさぬように心を用うるよう、入場後は諸事心をつくして習い、他日この地に製糸場出来の節差しつかえこれなきよう覚え候よう、・・・」
母:「このたびお前を遠方へ手放してつかわすからには、つねづねの教えをよく守らねばならぬ。また男子方もたくさんおられるだろうから、万一身を持ちくずすような事があっては、第一御先祖様へたいして申しわけがない。また父上や私の名を汚してはなりませぬ。」

父親の忠告は公的色彩が強く、松代にも製糸工場ができる計画であり、そのための派遣であり、技術をしっかり身に着けてくるように忠告しています。母親の忠告は私的な内容になっております。この時代、父母の役割がしっかりしていたようです。

2006年7月26日に撮影した富岡製糸場の設備です。機械設備は保存のためでしょう、ビニールが被っておりました。製造方法の履修

工場はフランス人5人が管理・指導しておりましたが、参考資料の中の記述から類推すると、冨岡製糸工場では生産ラインの管理者として、受持書生(男性)、中廻りの工女が居たようですが、中廻りの役割は何でしょうか。
各地から集まった従業員は旧藩意識が残っており、強い対抗意識で早く仕事を覚えようとしたのです。

左は製糸場の内部で2006年7月に撮影。機械類はビニールに覆われて保管されておりました。

生産性向上

製造ラインの中で一人の女性が、生産物の上げる成果として従来6,7升であったものを8升上げたのです。これが冨岡製糸工場で初めての快挙であり、工場内の評判になりました。
このことが、ライン管理者が従業員に8升に挑戦したらと言わせることになります。

横田英子さんにも影響が出てきまして、「はばかり(トイレ)に参りますにも二人づれで参りまして、ゆるゆると歩いて参りました」という状態から、「はばかりにもなるべく参らぬようにいたしまして、是非参らねばならぬ時は往復とも駆け出して参るくらいにいたしまして」に変わりました。
そして、作業の細かな手順の改善をおこなっております。
横田英子さんに言わせると「わざわざ手間をつぶしてかえると申すようなことをいたさぬように気をつけておりますばかり、すべて無益な時間のかからぬ用心のみいたしましたくらい、・・」ということになったのです。
日本の改善提案、QC制度の芽生えが感じられます。
最終的には、ほとんどの人が8升をとるようになり、指導のフランス人もいなくなりました。

民間工場へ技術の水平展開

官営工場で製糸技術の履修を終えた松代出身の横田英子さんらが、地元の民間製糸工場へ呼ばれました。長野県松代町の南西条村字六工の六工社が民間工場です。
この六工社で地元出資者と冨岡製糸仕込みの横田英子さんら女性技能者との間で技術的論争がありました。
繭(まゆ)を十分煮てから糸をとるか、軽く煮て糸をとるかの論争です。
横浜の西洋人に両方の糸を提示し価格を見積もってもらったところ、軽く煮て糸をとる方法が高値であったのです。軽く煮る方法は冨岡製糸工場の方法で、横田英子さんら若い女性たちの主張でした。
どちらが高値になるか横浜で見積をして欲しいという提案は女性側からあり、地元出資者側への彼女らのねばり強い提案があったと予想します。
普通は地元出資者(資本家)の意向が優先されることが多いでしょう。現在でも若い女性社員が社長などへ提案することは、まず難しいと思います。

彼女らをそうさせたのは何でしょうか。
松代の製糸工場六工社に「繰婦勝兵隊」という額が掛かっていたようです、「繰婦(女性技能者)は兵隊に勝る」という意味です。

「殖産興業」を旗印に日本が「工業立国」として動き出したのです。


参考資料:記録現代史日本の百年、御一新の嵐(筑摩書房) 2004.03.27