報恩寺についてのちょっとした話しです。
東京は上野の報恩寺の檀家総代に小笠原貢蔵という方が居られました。
この方が残した文書が横浜開港資料館に依託されております。
私のデータベースによると小笠原貢蔵という人は、天保10年頃、小人目付という役職でして、あの悪名高い鳥居甲斐守耀蔵の配下のようで、天保10年といいますと、高野長英、渡辺崋山が追いつめられた時期にあたります。
この小笠原貢蔵さんは長崎奉行与力を勤めたそうで、その養子(家督相続は弘化3年)の甫三郎さんは浦賀奉行与力や神奈川奉行与力を勤め、ペリー艦隊の乗組員と面談しているとのことです。
そして、小笠原甫三郎さんの子孫の方から小笠原貢蔵は鳥居の配下であったの確認を得ました。
小笠原甫三郎さんは江戸有数の数学者内田弥太郎・奥村喜三郎に師事し、佐久間象山と交流しているという人物です。
この話は別途ページを改めて続けます。なお、これらの情報は「横浜開港資料館」から頂きました。
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