数学書の意味で「じんごうき」という名前が使われたほど有名な「塵却記」が吉田光由により書かれ、寛永4年(1627)に最初の版が出されました。版を重ねて出版されたこの塵却記は、従来の数学書が姿を消すほどと言われており、著者の吉田光由は当代第一の数学者だったようです。
なにせ頭の痛くなる数学書が売れるのですから、今流に言えば、損をしないための数学入門、人の先行くやさしい計算術、楽しい計算と知的生産、と言った実務書だったのかもしれません。
この吉田光由の寛永
18年の塵却記小型3巻本では、巻末に世間の数学者に挑戦した12問が始めて掲載されました。これが「遺題継承」の嚆矢と言われております。 吉田光由はなんで世の数学者に宿題を出したのでしょうか。塵却記は評判が良く、その証拠に、海賊版が出回ったようで「…諸書をきざんで世わたる人、是をうつしもとめて、利のために世にあきなふといへ共、そのくわしきをしらざれば、あやまり見だせる所おおし。されば我書のやまひならんもおもふにくるし」と巻末に跋文を入れるようになり、三色刷りにして本家本元を明らかにしています。「寛永8年版(大型3巻本)」海賊版は誤りが多く、吉田光由の名前を使っているものもあったようで、本家の塵却記の信頼性も揺らぐ心配がある程だったのです。
当時は著作権も保護されていないでしょうから、本家が三色刷りにするなど防衛策をとっております。
それからさらに寛永
18年の小型3巻本では、巻末に世間の数学者に挑戦した12問が始めて掲載されました。
吉田光由は「違闕を正して世に伝えれば、誠に国家の重器たるべし」、「誠に大成あやまりなれ共、世渡る人、其あやまりをしらずして求之。是、後世のたすけとやならんために、」
と記述しているように誤りを正すことの重要性を挙げ、彼の名誉のためもあり、数学者のレベル見極め手段を提供するのです、すなわち、解答のない問題を掲載し、これが解けるか解けないかで数学者の質を判定するようにと宣言しました。
間違って教える数学者あるいは数学者もどきが余程多かったのでしょう。
この巻末の答えの無い問題の掲載が慣例になってしまいました。
むずかしい問題は次の世代へ問いかけられ、「遺題継承」と言うことになったのではないでしょうか。
正しい数学をいかに保つかを考えた吉田光由の苦肉の策が「遺題継承」と言う数学レベル向上システムに変わったと考えられます。
Essays13 和算と第一次長崎海軍伝習所へ戻る。参考資料:塵却記論文集(塵却記録刊行
350年記念顕彰事業実行委員会編)、江戸庶民の数学(佐藤健一)