No.9 江戸城が無血開城した当日のお話 2003.04.06
永く徳川政権の本拠として君臨していた江戸城が官軍に引き渡されたのが 慶応4年(戊辰)4月11日でした。 今の暦ではちょうど5月のゴールデンウィークの頃です。
この日、晴れのち夜に入り雨、風が強い日でした。
すでに1週間前に勅使東海道先鋒総督橋本実梁らが江戸城に入り、徳川方に対して
御処置を言い渡しており、この処置期限がこの日でした。
御処置の条件は、徳川慶喜の死罪を許し、徳川家は存続、江戸城は尾張藩の管理、家臣は
城外に退いて謹慎など徳川家から見てさほど酷な条件とは思われません。この条件を得る
ための官軍と徳川方そして外国勢を含めた駆け引きがありました。
*江戸城開城の要因として何が考えられるのか、試しに階層分析法(AHP)を使ってみました。→Essays28
総督府の海江田武次、木梨精一郎両参謀と幕府側若年寄川勝備後守、大目付堀錠之助、田安家
家老平岡荘七らとの間で引き渡しは事務的に行われたようです。
この日の城の外の情勢として、朝早く上野寛永寺に引きこもっていた徳川慶喜が、髭はのび、 黒木綿の羽織に小倉の袴、麻裏草履の質素な姿で水戸へ向かいました。
夜には、品川沖から海軍副総裁榎本武揚に率いられた 幕府軍艦7艦が館山湾に脱走しましたし、 大鳥圭介ら旧幕軍が江戸を脱走しております。
幕府側には兵力がありましたが、江戸城開城には抵抗しておりません。そして開城のほぼ一ヶ月後 上野の山で彰義隊の奮戦があるのですが城を奪回するものではないようです。
城の引き渡しですから、今まで住んでいた方々はそれぞれ城の外へ出なければなりません。
家臣は城へ出勤していますから問題はないのですが、大奥の住人は外へ引っ越しすることに
なります。
前日には、天璋院(篤姫、13代将軍家定夫人)と
本寿院(家定の生母)が一橋邸へ、前々日には静寛院宮(和宮、 14代将軍家茂夫人)と実成院(家茂の生母)が清水邸へ移りました。
嫁と姑が対で引っ越しました。
引っ越すにあたり夫家茂の位牌を持って行かなかったとか、
行ったとか取りざたされておりましたが持って行ったでしょう。
将軍家茂の位牌の話がでましたので、ついでに皇女和宮の位牌についての話は、→![]()
また、14代将軍徳川家茂のお墓と夫人静寛院宮のお墓が東京の増上寺に並んでおります。
左の写真で左側が静寛院宮、右が徳川家茂公の墓所になります。「2003.04.05徳川墓所特別公開」」
写真をクリックすると拡大写真を見ることができます。
15代将軍慶喜夫人はと言いますと、大奥ではなく一橋家の小石川邸(?)におり、
徳川歴代将軍の御台所で、生涯一度も大奥に入らなかったのが15代将軍の夫人美賀ただ一人
だと言われております。
引渡しに携わった海江田信義(武次)によりますと、彼が静寛院宮及び天璋院の居室に入ると、各々、その壁間に三幅対の瑞祥をあしらった画幅が掲げられ、床の間には香炉や時計(時辰儀)など希代の名品が遺されてあったようです。
参考資料:勝海舟 子母澤寛(第5巻)、幕末の大奥 高柳金芳、海江田信義の幕末維新等