No.7 いつからか、義賊になった鼠小僧次郎吉

江戸は天保の頃、とある長屋での出来事。

「おとっつぁん、痛むかい」、「苦労をかけるね ....」。
....病気のとっつぁんと娘一人、すすけた畳の一間に今日も長い夜が来る。

「お美津どうした。誰か外にいるのか」、「おとっつあん、こんなところに小判が...」
....あっ、
ねずみ小僧のおじさんだ。
(若干、月光仮面と混同しております)

いつの頃からかこのような話がありましたが、実のところは違うようです。

鼠小僧次郎吉実在の人物でして、 寛政7年(1795)年江戸、堺町の芝居小屋中村座の木戸番、貞次郎(定七)の長男として生まれたようです。
建具職、鳶人足などを稼業としましたが、どうも職人渡世が身につかず、 酒と賭博の方へ傾きました。 こちらの方へ傾くと、行き着くところが盗人渡世になってしまいます。
文政8年(1825)、一度捕らえられ、入墨追放の処分を受けています。 ほとぼりがさめた頃、また稼業に精を出すことになります。...鼠小僧の正体(その2)

   天保2年(1831)2月には仁加保孫九郎宅から180両、 3月には松平河内守屋敷から40両、 5月には六郷兵庫頭長局から30両、 9月には本多大隅守屋敷から80両、 そして溝口信濃守屋敷から30両、 翌年3月には細川家から39両と盗みます。 自供によると盗んだ金は、3121両2分、銭9貫260文、銀4匁3分。 忍び込んだ武家屋敷の数は99と言っているようです。北町奉行榊原主殿頭の判決文に見る盗みの内容。

中日新聞(1997.08.30)によると、七尾市庵町の高橋家の蔵に保存されていた古文書の中から「鼠小僧所々江入込盗賊仕金高(一字判読不能)御大名御名前附之覚」という古文書が見つかりました。
被害額と大名の名前が個条書きになっております。最も被害の多かったのは大垣藩(岐阜)で、四百両を一度に盗まれており、佐賀藩の鍋島家は五回も忍び込まれ、六十から十両ずつ計百七十六両が盗まれております。その他、水戸藩の被害 90両、尾張藩の被害 1両1分、熊本藩の被害 12両(3回の被害)のようです。

この頃の小判1両は今のお金にしてどの位なのかを計算してみますと、 約 2万3千円になるのです。(*1)

   そこで鼠小僧が盗んだ3121両を円に換算すると ほぼ7千2百万円になる勘定です。 また武家屋敷99件から盗んだとのことですから、武家屋敷1軒あたりの被害額は72万5千円になります。さて、一軒あたり72万円の現金があることになります。眠っている資金と言えるのか、銀行のない時代、 現在のように融資して有効に使うということがなかったのでしょうね。

......また、当時武家屋敷は何軒あったのでしょうか。この軒数が分かれば江戸の武家屋敷のタンス預金 の合計額が分かりそうです。産業資本としての活躍の場はなかったのでしょう。鼠小僧が忍び入った屋敷は、統計学でいう無作為抽出に相当するかもしれません。 母集団の数が分かれば統計的な処理ができるかもしれません。野口武彦さんの「安政江戸地震」によれば、安政2年当時の大名総数は266家で、ほとんどが江戸屋敷を持っていたとのことです。統計処理は別の機会にしましょう。

鼠小僧の話を続けます。

   いよいよ年貢の納め時で天保3年5月5日(武江年表)鼠小僧次郎吉は、 夜、浜町の松平宮内少輔の屋敷に入ったところを北町奉行同心に捕らえられます。「其余は、残らず酒食遊興、又は賭博を渡世同様に致し、在方諸所へも持ち参り、残らず使い捨て候」。と、白状したようですから、どうも「お美津さん」の家には投げ込んでいないようです。

忍びの手口は、塀を乗り越えるだけでなく、通用門から何くわぬ顔で紛れ入っていまして、 目指す所は、家来たちが近付かない長局や奥向などである。 女達の居る所に目をつけ、奥向の方が仕事がしやすく、見つかっても逃げやすいだけでなく、 屋敷の方でも奥向が荒されたというのでは不名誉なことなので被害届が出なかったとのことです。

鼠小僧の奥向きの仕事を予想できる話しが、甲子夜話第49巻にあります。
     忍び入った鼠小僧は、部屋ごとの障子にチヨットずつ穴をあけて中を覗いていたようで、部屋の中においては、鼈甲の簪(かんざし)を取り出して並べておいたり、タンスの中の紫ちりめんの小袖を取り出して、屏風に開いて掛けたりしているのです。
これが本当ならば相当な余裕でして、なかなか信じられる話しではありません。どうも尾ひれがついた話しになっている気がします。

     奥様、うちなんかは銀のかんざしを20個も並べておりましたのよ。
     あーら、うちもよ、グッチ(?)のかんざしを奇麗にならべてね。

盗まれておりませんので本当かどうかは分かりません。甲子夜話第49巻の話しはこの手の話しのような気がしますが、どうでしょう。

そして、天保3年8月19日、ついに浅草小塚原で処刑されますが、 江戸市中引き回しのとき女装したと記録にあります。 裸馬に乗せられ薄化粧し、黒麻の帷子(かたびら)を着ていたというお話です。 また、鼠小僧は五尺に満たない小男だったようで、 馬上では女性に見えたのではないでしょうか。年齢は36-38才と思われます。

*1:米で換算してみると、米1石は江戸末期に3両、米1石は10斗=100升、1升は 1.4Kg、したがって米1石は140Kg、現在米5Kgが2,500円とすれば、 1石70,000円となり、3両が今(1997.01)の70,000円に相当することになりますから、結局 1両が23,000円になりましょうか。 この場合精米か籾殻つきかは考えず精米とします。


鼠小僧の正体(その2)

いわゆる義賊鼠小僧は、徹頭徹尾、紙の上と舞台の上の想像物で、実物の鼠小僧は義賊でも何でもない。
日本橋堺町中村勘三郎座の木戸番定七の長男で、寛政年間、大阪町に生まれ、十五六まで松平讃岐守御抱え建具屋、星十兵衛の徒弟をつとめあげ、家に帰り、町方鳶人足となって、博奕をおぼえ、酒と女に身を持崩し、ついに親から勘当された。
それでも賭博道楽がやめられず、資金に窮すれば、夜盗をはたらき、文政六年から天保三年まで、江戸市中を流浪して、主に大名屋敷を荒らし、天保三年五月八日、浜町の松平宮内少輔の屋敷へ忍び入って、捕らわれただけのものである。「江戸から東京へ(四)、矢田挿雲」


北町奉行榊原主殿頭の判決文に見る盗みの内容

鼠小僧の盗みは、前期と後期に分けて考察すべきものであるらしく、その前期には武家屋敷に忍ぶこと、28ヶ所、度数32度、盗んだ金が751両1分、銭7貫600文、後期に入って長大足の進歩をとげて、武家屋敷71ヶ所、度数90度、盗んだ金は2,334両2分、銭3貫372文、銀4匁3分、右いずれも塀を乗り越え、あるいは通用門から紛れ入り、主として奥向へ忍びこんで、錠前をこじあけたり、土蔵の戸を鋸で引切ったりして盗み出したもので、そのうち3,321両2分、9貫260文、銀4匁3分、銭700文は衣食住の贅沢につかい。その他は酒色遊興、または博奕のもとに使い、際立って貧民にほどこした形跡はない。「江戸から東京へ(四)本所(上)、矢田挿雲」


慶応2年10月に鼠小僧を連想させることがありました。

箱館奉行杉浦誠の日記によると、(慶応2年10月)二十三日 昨夜より雪、外二十六度(摂氏マイナス三度)
この日、町名主から届書が出される。大町二丁目の九左衛門と同町一丁目の来助はかねてから困窮者だったが、二十一日の夜八時頃、覆面をした男がまず九左衛門の家の前に米一俵を置去り、さらに同夜十時頃、来助の家の前にも同様に米一俵を差置いた。居合わせた者が名前を尋ねたが答えずにすぐ立ち去ってしまった。同町の手代共から申出があったので書付を以て御届けする次第である。名主要輔。

参考資料:徳川十五代史、武江年表、歴史読本特別増刊「江戸時代 生活文化 総覧」、 江戸幕府・破産への道、中日新聞(1997.08.30)、江戸から東京へ(四)、安政江戸地震、最後の箱館奉行の日記 他


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