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No.5 落城のとき火を放つということ 2007.05.14
幕末には戊辰戦争、長州征伐などの色々な戦争がありました。その戦争には
それぞれの落城があります。江戸城、大坂城を
除いて、
それらの落城を見てみました。データベースから取り出すことが出来た落城を並べてみます。
| 浜田藩浜田城 | 慶応2年7月18日 | 火を放つ |
| 小倉藩小倉城 | 慶応2年8月1日 | 火を放つ、城下が四日間燃える |
| 大坂城 | 慶応4年1月9日 | 炎上 |
| 備中松山城 | 慶応4年1月14日 | 城明け渡し |
| 桑名城 | 慶応4年1月28日 | 世子万之助が開城 |
| 結城城 | 慶応4年4月5日 | 藩主水野勝知は敗走 |
| 天童城(陣屋) | 慶応4年閏4月4日 | 庄内軍及び博徒隊が襲撃、藩主は逃難 |
| 請西藩真武根陣屋 | 慶応4年閏4月8日 | 火を放ち、藩主林忠崇脱藩 |
| 白河城 | 慶応4年5月1日 | 新政府軍が占拠 |
| 長岡藩長岡城 | 慶応4年5月19日 | 落城 |
| 棚倉城 | 慶応4年6月24日 | 火を放つ、藩主は出羽分領へ逃亡 |
| 三春藩の城 | 慶応4年7月 | 藩主後見秋田主税が無血開城 |
| 左の写真は敵の攻撃にさらされ破損した会津鶴ケ城 | ||
| 平藩平城 | 慶応4年7月13日 | 火を放つ、安藤信正は仙台へ |
| 長岡藩長岡城 | 慶応4年7月29日 | 火を放つ(再落城) |
| 二本松藩霞ケ城 | 慶応4年7月29日 | 火を放つ |
| 横手城 | 慶応4年8月11日 | 新政府側の城 |
| 秋田藩大館城 | 慶応4年8月22日 | 火を放つ |
| 猪苗代城 | 慶応4年8月22日 | 城代高橋権太輔が火を放つ |
| 会津藩鶴ケ城 | 明治元年9月22日 | |
| 松前藩福山城 | 明治元年11月5日 | 火を放つ |
| 松前城 | 明治2年4月17日 | |
| 五稜郭 | 明治2年5月17日 |
城を他人に渡さざるを得ない時、その主は城を自らの手で 火を放つ場合が多いのです。
なぜでしょう、他人に使わせるのが癪なのでしょうか、それとも、残り香を消したいの
でしょうか。もしかして、飛ぶ鳥後を濁さずなのでしょうか。
戦略的に拠点を作らせないのであると、聞いたことがあります。これなのかもしれません。会津藩鶴ケ城と五稜郭は火を放つことはなかったようです。
会津藩はもう逃げるところがないというより逃げることは考えていないのかもしれません。
会津藩は佐幕ではありますが、勤王の印象が強いのです。
権謀術数の世界で、ただひたすら己の筋をまっとうしたのが会津のような気がします。
世の人は、あの白虎隊の少年たちを語り継ぎます、それは「勝てば官軍」に遠慮して、
民衆が会津の生き方にどこか共鳴しているからかもしれません。
「戊辰戦争を白虎隊に象徴させて、美しく、空しく死んだ少年の霊をなぐさめる。
それが日本の民衆が政府に代わって行った会津に対する鎮魂の儀式であると.....
梅原猛」
そして、新政府軍の将前原一誠は、会津藩について 「胸中に一点の風味あるに似たり」と言っております。 新政府側にも会津に対して思うところがあったのでしょう。
五稜郭は戊辰戦争の最終局面に登場しますが、もう慶応(戊辰)ではありません明治と改元されて
しばらく経っているのです。まして北の果て 蝦夷(私の生まれ故郷)ですから、体勢に影響がないと
新政府は考えて、次の思惑があったように思えます。
勝利を確信すると余裕がでるのが人情というものでして、その雰囲気があり、
榎本武揚らは火を放つ 必要を感じなくなっていたのでしょうし、逃げ場がなかったのです。
参考資料:歴史と人物(昭和59年)、藩史総覧等
2003.4.19/2004.2.28/2004.3.12/2006.3.7/ 2006.12.30/2007.05.14