No.44
ペリー艦隊が長崎でなく浦賀へ来航した背景は?
なぜ、ペリー艦隊は浦賀を選択したのでしょうか。
米国から日本へ艦隊が派遣されるという事前情報は、ペリー来航の3年前に、日本に届いていました。
嘉永3年6月22日に「別段風説書」なるものがオランダ通詞より長崎奉行へ提出されており、この中に米国艦隊の派遣情報が含まれていたのです。ペリーが遣日米国特派大使に任命されたのが嘉永5年閏2月4日(1852.03.24)ですから、嘉永3年時点では誰が派遣されるのか、艦隊の規模等は、まだ決まっていなかったと思われます。そして、オランダよりもたらされた「別段風説書」の米国艦隊派遣情報は長崎に詰めていた藩の長崎聞役たちに、蜘蛛の子を散らすように広まり、国元へ報告がされていったのです。
米国艦隊が何のために、何時、日本へ来るのか、そして何が起こるのか。これが当時もっとも注目される外交案件だったと思います。
ペリー艦隊が長崎に来るのか、それ以外に来るのかの議論はいつ頃からあったのか調査が必要ですが、来航一ヶ月前には浦賀へ来るという話が広まっていたのです。5月3日付の横井小楠の書簡に、浦賀へ来航するらしいとの話があります。
横井小楠から福井藩士岡田順介に送った手紙に「定て夏中には浦賀へ参り申すべく候」とあります。
どこから情報を入手したのか、それとも予想なのでしょうか。
嘉永2年閏4月には英国の測量船マリーナ号が江戸湾、浦賀水道の測量を行い、大きな話題になっていますから、ペリー艦隊は浦賀に来るであろうと予想したのかもしれません。
オランダは商館長を交代して時代の変化に対応しようとしたが、 日本の国法に則って長崎に来るか、それともその他にするかは米国艦隊が決める課題です。 ペリー提督は日本遠征に当たり、各種情報を収集し研究しております。この結果、長崎の選択はオランダとの折衝が必要となり、これを避けたようです。
ペリー艦隊の来航は従来からの慣行を破ったことになり、これは技術革新である黒船(蒸気船)が持つスピードが米国の合理性とあいまって起こした新時代への革新とも言えるのではないでしょうか。 米国の合理性が長崎ではなく浦賀を選択したかもしれないと予想しましたが、 オランダはペリー艦隊を「危険な艦隊」であると日本側に吹聴しているとの危惧があったのではと思います。このような状況では、オランダと一線を画すのが良いと判断したのではないでしょうか。 新興国アメリカの誇りが、長崎ではなく浦賀を選んだように思えます。 参考資料:
従来路線からは出なかったのに対し、米国は従来路線を否定していたのです。
米国の考え方を知る上で参考になるのは、ジョン万次郎の意見です。ジョン万次郎は米国艦隊の再度の来航について次のように言っています。
「長崎はすべての外国船が着く所で奉行所のあることも承知だが、江戸とは遠くて少しの交渉でも時間がかかる。浦賀は江戸に近いことも知っているので、浦賀を目指してくるだろう。アメリカでは大統領をはじめ上下の隔てなく、諸事隔たりのあるを嫌うので、来航するときは「必ず浦賀又は江戸へ罷り越し、直願等をも致し、わざわざ長崎へ罷り越し奉行所の取次頼申立」るようなことはしないであろう」。
日本遠征記には直接述べられていませんが、ペリー提督がオランダ長崎を避けたのは、一つに永い間、日本と付き合っていたオランダが、なぜ、条約を締結しなかったのか、締結できなかったのか、不明な、そして裏がありそうなことが気になったのではないかと......
江戸・浦賀の距離は江戸・長崎の距離よりはるかに短いのです。
ペリー提督の「日本遠征記(1)」では、国際的な要因が浦賀に向かわせたとも読めるのです。
さらに、ペリー提督が日本遠征の途中、ケネディ海軍卿へ送った書簡の中に、「オランダ人の恥づべき陰謀の裏をかくは、・・・」とあります。このようでは長崎に行くはずはありません。
また、日本遠征記では以下のように言っています。
アメリカ人はオランダ人及び支那人に課せられてゐるような拘束には決して従わず、この上かやうな拘束をするとほのめかすことは吾々に対する侮辱と考へ度い。
長崎聞役日記(山本博文)、私のジョン万次郎(中浜博)、横井小楠:歴史文化ライブラリ 、ペリー提督日本遠征記(1)岩波文庫など。
変更:03.10.21/06.09.24