No.42 とてつもなく広い大名屋敷


1辺が100mを越す広さがごろごろある大名屋敷、
幕府からの拝領(土地は幕府所有)と言う形態になっておりますので、
知行高により広さが決まるのです。


上屋敷の交換(Essays No.1 )で、久世大和守広周の屋敷が 7,058坪(23,291平方メートル)もあったとの話ですが、「隠居大名の江戸暮らし(江後迪子著)」に、豊後国(大分県)臼杵藩藩主稲葉伊予守の江戸上屋敷が 4,954坪(16,348平方メートル)江戸下屋敷が 3,480坪(11,484平方メートル)とあります。(下の紋は稲葉家の家紋です)
稲葉家の家紋(隅切角に三文字

現在のつましい我々市民の家の広さを、多めに50坪(165平方メートル)とすると、100軒が入ってしまうというとんでもない広さです。
では、臼杵藩藩主稲葉伊予守の屋敷の広さは、他の大名と比較してどの程度なのか、安政六年須原屋茂兵衛版の分間江戸大絵図で見てみました。
当時の地図の距離、面積は正確だとは思われませんが、一応の目安にはなると思います。

下の絵図で上の丸で囲まれた所が稲葉伊予守の上屋敷(家門表示が上屋敷)、下の丸で囲まれた所が下屋敷です。 古地図でわかるように、臼杵藩藩主稲葉伊予守の屋敷の広さはどうみても広い方ではありません。大名屋敷としては小さい方でしょう。このお屋敷より格段に広い大名屋敷が相当沢山あります。
江戸日本橋南一丁目 須原屋茂兵衛蔵版

稲葉伊予守江戸上屋敷の 4,954坪(16,348平方メートル)の広さはわかりやすく考えると、一辺が 128mの正方形に相当します。
ちなみに東京ドームのグランド部分の面積は 13,000平方メートルですから、稲葉伊予守江戸上屋敷の敷地には東京ドーム・グランドがすっぽり入ってしまうのです。ちなみに、甲子園球場のフィールドも同じ 13,000平方メートルと言われています。

安政六年須原屋茂兵衛版の分間江戸大絵図を眺めると、東京ドームが2,3個入るくらいの屋敷があちこちにあります。
大きな屋敷があちこちにある江戸の風景とは、現在の人混みの風景とはまったく違うような気がします。どのような風景なのか、英国園芸学者のロバート・フォーチュンの見聞記などが手許にあるので紹介します。


英国園芸学者ロバート・フォーチュンの幕末日本探訪記とトロイア遺跡の発掘で名高いシュリーマンの旅行記にある大名屋敷周辺の様子を「幕末物語No.1 上屋敷の交換」で紹介しています。



嘉永5年9月10日に勘定奉行川路聖謨が虎ノ門の公邸に引っ越しましたが、この公邸の広さが 4,000坪(甲子園球場のフィールドと同じ広さ)といわれますし、安政3年での久世大和守広周のお屋敷が7,058坪(23,291平方メートル)のようです。久世大和守は下総関宿藩ですから、5万8千石ですから、下図の「知行高と拝領屋敷の大きさ」5,000坪が標準のようですが、7,000坪ですので優遇されているのかもしれません。

その他主な大名の屋敷地です。(安政三年、歴史読本、大江戸おもしろ役人役職読本)

  1. 堀田正睦(下総佐倉十一万石)西丸下....... 8,104坪(26,743平方メートル)
  2. 阿部正弘(備後福山十万石)辰之口...........9,241坪(28,000平方メートル)
  3. 牧野忠雅(越後長岡七万四千石)西丸下.....8,353坪(25,309平方メートル)
  4. 久世広周(下総関宿五万八千石)大名小路..7,058坪(21,385平方メートル)
  5. 内藤信親(越後村上五万石)....................7,675坪(23,255平方メートル)
  6. 松平定猷(伊勢桑名十一万石)北八丁堀.....9,301坪(30,693平方メートル)但し,685坪は河岸,他に元矢之倉中屋敷1,760坪があった。
幕府からの拝領地であったのですが、どうも半端な広さではないのです。また、元禄六年の拝領屋敷坪数覚によりますと、大体以下のような具合です。

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このような広いお屋敷の中はどうなっていたのでしょうか。
江後迪子さんの本によると、臼杵藩藩主稲葉伊予守の上屋敷では、奥女中(老女、御中老、御側、御次、御小姓、御中居、御末など15人、表勤めの家老、御小姓頭、直詰、御用達、御用人、御医師、御家所女中、御附、御口番、御手明、小使など30人近い人々がいたようです。では、これより広いお屋敷には何があったのか気になります。

参考資料:歴史文化ライブラリ 74 隠居大名の江戸暮らし(江後迪子著)2018.05.27

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