No.4 浜田藩おちのびて鶴田藩、乳母の乳が出ない逃避行


  幕末の末も末、慶応3年3月に岡山県久米郡に一つの藩が誕生しました。

......目出度い地名を採って鶴田(たづた)藩と名づけ、 大庄屋福山元太郎の邸宅を館としました。
この鶴田藩の藩主は 松平武聡(たけあきら)と申しまして天保 13年(1842)の生まれですから、25才の若者でございます。
でも、ただの若者ではございませんで、水戸中納言徳川斉昭 の第10子という尊い血筋なのであります。

斉昭という方は色々エピソードがある方でございますが、 この話しはまたの機会ということにしましょう。

......この鶴田藩には涙、涙のお話があるのです。

......油木北村の庄屋さん、村上与六という人が残した 「御人数引越萬記」と言う記録がありまして、 その中に、「此の度は所詮勝利おぼつかなく、 若奥様御乳弐人御女中拾弐人守護し、因州へ立退くべく、・・・此の場において 氏素性もいらざる義と、農民共のうちそれぞれ取り調べ、御乳をすすめ」という 記述があります。

藩主松平武聰の夫人ら10人が船で脱出したのですが、 世子武修が乳を欲しがり泣き叫ぶため、一旦和木(江津市)へ上陸して もらい乳をしたのです。
「氏素性もいらざる義」と書かれております、これはせっぱ詰まった様子が見て とれるではありませんか。
「御乳弐人」とあるのは乳母のことでしょう。乳母の乳が でない程、緊張した立ち退きだったことが予想されます。
泣き叫ぶ息子を母がいたたまれなくなり、氏素性は問わない、乳が出る人が欲しいという 母親の懇願が如実に出ている、せつない光景が浮かんできます。

実は、御家門の浜田藩がその城を焼いて落ちのびて、 なんとか立てたのが鶴田藩でございました。 浜田から久米までは八十余里と言われ、ほとんどは徒歩旅行であったようで、 武士の妻もその誇りをたよりに歩いたのでしょう。 物の本によりますと、武士の妻の誇りを垣間見る話しがあります。 草鞋の前と後を逆に履いて、「負けて逃げるのではない、 後ずさりしているだけじゃ」とは、メンツそのものではないでしょうか。

鶴田藩(浜田藩)は朝廷に対して藩地回復の哀願をしておりましたが、家老小関隼人(66歳)の自刃謝罪により、藩主の謹慎が解け、領地も返還される旨の内意がありました。慶応4年閏4月のことです。
鶴田藩には家紋が3つあるようで、 このページの上から三つ葉葵、揚葉蝶、琴柱(ことぢ)とありまして、 この順番に順位があったと言われます。

蛇足、同じ頃、岡山県にはもう一つ藩が出来ており、成羽藩 と言いました。慶応4年6月ですが、あと3ヶ月で明治になります。


参考資料:久米町史、藩史総覧、最後の江戸留守居役(白石良夫)等
1996.12.3/2008.9.26

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