No.38 密約・薩長同盟の素地、そして坂本龍馬の斡旋開始

応元年(1865)5月1日、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大山彦八そして坂本龍馬、高松太郎らが薩摩藩船胡蝶丸で鹿児島に入りました。彼らは薩摩の藩論を第二次征長阻止にまとめるためでした。

鹿児島滞在中、坂本龍馬は西郷隆盛や小松帯刀の家にやっかいになりながら、第二次征長阻止の具体策である薩摩藩の征長出兵拒否、そして薩長和解を議論したようです。

薩摩藩の征長出兵拒否は薩摩藩内の決定事項ですから、第三者がとやかく言う筋合いのものではありません。しかし、薩摩と長州の和解はしかるべき第三者の仲介が要求されます。
ここに第三者としての坂本龍馬の出番がありました。
鹿児島を離れた坂本龍馬は筑前太宰府の延寿王院にて三条実美に謁見し薩長和解策を説いております。

なぜ薩長和解策をとらなければならないのか と言う大問題は別途としまして、この時から、坂本龍馬が公然と薩長和解に乗り出したようです。東久世通禧(みちとみ)が坂本龍馬を「偉人なり、奇説家なり」と驚いておりますから、坂本龍馬の薩長和解策はセンセーショナルなものだったと思います。

坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
また、第二次征長阻止に関連して、半年ほど前に薩摩の西郷隆盛は、征長軍の解兵後に
五卿を福岡藩に移すという妥協案で長州を納得させたようですから、薩摩は五卿の取扱、第二次征長阻止を通じて長州藩の救済にあたっていたのでしょう。


摩と筑前太宰府の意向を把握した坂本龍馬は、下関で病気静養、それから備前に寄り、慶応元年(1865)6月24日京都に入ります。

京都で坂本龍馬は、長州藩が幕府の再征に備える武器購入を希望していることを西郷隆盛らに伝え、薩摩藩名義で長州藩のための外国製武器購入が承諾されております。すなわち薩摩藩名義で英国商人グラバーから銃約7000丁を購入し、長州へ融通することが決まりました。坂本龍馬はどこから長州藩の武器購入の情報を得、確認したのか、坂本龍馬の情報ネットワークが知りたいところです。
坂本龍馬と西郷隆盛らの間で長州藩のための武器購入がまとまりましたが、これを長州へ報告する使者が三条卿衛士楠本文吉でありました。筑前太宰府チームの人間がここにも出てきます。仲介役としてうってつけの第三者の役割に筑前太宰府チームの人間が有効に働いたようです。

そして、慶応2年(1866)1月21日、薩長同盟が成立しました。

この同盟は一部の関係者しか知らないのです。

薩長同盟は密約です。一部の権力者による密なる約束です。密約でも動く政治システムがここにあります。「俺は聞いてなかった」と言う藩内の異論者を力で押さえる、あるいは上意を利用して押さえることにならざるを得ないと思います。

いつの頃か薩長同盟の芽が出て、発芽の後、筑前太宰府で大きく育ったようです。そして、坂本龍馬によって、実利を伴って具体的になったと言われております。

文久3年(1863)8月18日のクーデターの頃は薩摩と長州は犬猿の仲なのですが、それから3年ほどの短い間に密なる同盟を組むのです。長州藩には、背に腹は替えられない事情(第二次征長への対応策)があったのですが、薩摩には同盟に関してどんなメリットがあったのでしょう。

東北諸藩においても会津・庄内藩の密約があり、会庄同盟と言われますが、この二つを比較して勝者と敗者について考えてみるのも面白いかもしれません。



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.../2007.02.08
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