死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネル


戦争には、当たり前ですが武器の需要があり軍需関連の商売が活発になります。
そして武器の斡旋をする「死の商人」が現れます。
戊辰戦争には、対抗する東北諸藩と西南諸藩に肩入れした死の商人がおりました。

左がエドワード・スネル、右がグラバー  参考資料の写真の一部。

懐旧談(益田孝男)に、「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった。本国に立派な根拠を持った商人はいなかった。オリエンタル・バンク、ホンコン・シャンハイ・バンク、ジャーデン・マジソン、ネイズルランド・トレーディング・カンパニー。この四つの外は皆食い詰め者ばかりのやうであった。諸藩に武器や船などを売込むのが商売で、茶や生糸の商売を大きくやるやうになったのは、余程後のことである。」

ものの本によると、亜米三といわれたアメリカ三番館のR・スミスや蘭八と言われたオランダ八番館のヘッセ・リリアンタル、それに日本語が達者と言われる楠正兵衛ことイギリスの横浜甲九十番の総支配人ウォーターらが武器で大いに儲けた口のようです。

現在、手元にある資料で、主な死の商人として、東北諸藩にはスネル兄弟、西南諸藩にはトマス・B・グラバが目につきます。グラバは長崎のグラバー邸で有名ですが、スネル兄弟は残念ながらあまり知られていないようです。

懐旧談では「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった」とありますが、スネル兄弟、トマス・B・グラバは単なる「死の商人」として片づけられないものがあるようです。彼らの「死の商人ぶり(軍艦、武器等の取扱量、売り込み方法など)」がどの程度だったのか、興味がありますが、このお話は別途としまして、このページでは、彼らが「単なる死の商人」ではないと言われる面を集めてみました。


まず、スネル(シュネル)兄弟から始めますが、まだ分かっていないことが多々あるようで、参考資料では、兄のヘンリー・スネル(平松武兵衛)と弟のエドワード・スネルの二人が出てきます。二人兄弟のように思えますが、別な参考資料では、兄のエドワード・スネル(新潟の山木商会、アカハネ・スネル、平松武兵衛)と弟のコンアート・ガルトネル(箱館の商人でかつプロシャ領事)、そしてエドワードの兄(名は不明)がいたようです。三人の兄弟が日本へ来たとあります。

日本名平松武兵衛を名乗ったのがヘンリーなのかエドワードなのか特定できませんので以下、平松武兵衛とします。
高嶋米吉氏の調査(参考資料)によると平松武兵衛はヘンリーのようです。
この平松武兵衛の印象を米沢藩士甘粕継成が文書で残しております。
時にスネル、深く米会(米沢、会津)の義挙を悦び、専ら尽力する心得にて髪をきり、日本製の袴、羽織を着し姓名を改めて平松武兵衛と称する。…・そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清麗、会老侯(松平容保)より賜りし小脇差を帯し来る。実に一箇の美男子なり。

彼は会津に屋敷を買い、日本人女性を妻にしたのです。そして、越後方面軍の軍事顧問に就任しております。そしてもう一つ、戊辰戦争の終わり以来、姿を消していたエドワードかヘンリーが明治二年四月、アメリカの新聞に登場するのです。彼はサンフランシスコの北東、アメリカン・リバーに近いエルドラド郡コロマ村で農場建設に励む日本人移民の指導者として紹介されています。この日本人移民は会津藩士たちだと言われております。やはり「単なる死の商人」ではないのです。


トマス・B・グラバーですが、薩摩や長州という西南諸藩を主な取引相手としておりまして、これもまた、日本人女性を妻としております。
その名を「ツル」と言いましたが、このツルさんは、有名なオペラ「マダム・バタフライ」の蝶々夫人なのです。グラバーは長崎の欧米人のための英国教会の建設、日本人専用の教会建設(出島に建設)、出島の長崎聖公会神学校建設など多大の協力をしております。トーマス・グラバーは「営利の商人」でありながら、「信念の実現のためには営利の範囲も逸脱せざるをえなかった」と記録にあるようです。

薩摩と長州は禁門の変以来、難しい関係になっていましたが、何がきっかけになったのか興味津々ではありますが、提携するようになったのです。
これのきっかけを作ったのがトーマス・グラバーでしょう。
長州が幕府に対抗するための武器を、薩摩藩経由で購入すると言うアイデアは彼が中心的な働きをしたと思われます。

参考史料:幕末に踊った死の商人 歴史への招待 NHK、幕末・維新の日本(近代日本研究会、年報 1981)、やまがた幕末史話、グラバー夫人(野田平之助)等
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