No.36 和船がマジに競争した新酒番船と新綿番船
文久3年に遠州灘で行われた幕末艦隊の大運動会(essays8)を以前に紹介しましたが、
この競争は「遊び」でしたが、そうではないマジな海上での競争があったのです。
この競争は西洋式の艦船ではなく、我が日本の千石船(弁才船、べざいせん)による競争でした。
| 毎年秋から冬にかけて、新しくとれた畿内の木綿を大坂から浦賀へ
16隻ほどが競争で運送する新綿番船(菱垣廻船)、それから灘、伊丹などの関西の新酒をレースで西宮から江戸へ運送する新酒番船(樽廻船)がこれです。 新綿番船は大坂安治川口から浦賀までを、新酒番船は西宮から江戸までを競争したようです。 新酒番船の船頭には金一封、12名位の乗組員は赤い着物、そして見物人が小舟で安治川口に集まるなど、お祭り騒ぎです。 菱垣廻船は江戸の十組問屋が大坂の二十四組問屋に発注した物資を輸送する船の組合で、1730年に十組問屋から酒問屋が脱退して樽廻船仲間を組織し、以後資金力豊富な樽廻船が強くなりました。 では、どのくらいの速さの競争なのでしょうか。 新綿番船では速力 7ノット(時速13Km)くらい、新酒番船では6.5ノットほど、また、「ものと人間の文化史、和船」の表によると4ノット(時速7.4Km)から6ノット(時速11.1Km)の速力です。この速力は西宮から江戸までを3.8日から2.6日で行くのです。 |
千石船は帆前船ですから、風がないとどうにもしょうがないので瞬間速力はもっとあったと予想されます。この速力は江戸前期の5倍になっているようですから、和船の造船技術者の創意工夫が相当なものであったと予想します。 すなわち蒸気機関という技術革新がない範疇での改良ですから船の構造はもちろん、操船技術なども相当な工夫があったのでしょう。 現代の製造業における「改善提案」のような日本らしい細かい改良が行われたと考えるのは外れていないと思います。 この成果かもしれませんが、弁才船は逆風帆走も可能になっていました。 すなわち向かい風でも斜め前に向かって進むことができたのです。現代のヨットと同じです。 また、和船の特色と言われる、何枚もの板を「はぎ合わせて」大きな板(大板構造)にする技術や板の合わせ目を隙間のないようにする「摺合わせ」技術はジャンボジェット機の胴体を作るモノコック構造を連想させますが、技術的な類似性は調査してみたいと思います。 |
| さて、和船の速力の実力を評価するため西洋の蒸気船の場合はどの位の速力があったのが調べてみました。 ・鹿児島藩の春日丸が16ノット(時速29.6Km) ・幕府の開陽丸、蒸気機関巡航速度 10ノット(時速18.5Km) ・薩摩戦争の英国の旗艦ユーリヤラス号は11ノット(時速20.3Km) ・明治8年三菱会社が政府の命を受けて商船学校を創設するにあたり、その校舎とした船、成妙丸。 この東京商船大学初代の係留練習船は383トンの三本マスト、スクーナー型帆装を持った鉄製暗汽船、原名アタラントで文久2年英国で建造された船は速力8ノット(時速14.8Km)。「東京商船大学九十年史」 |
・孟春丸、明治元年一月、佐賀藩が長崎で購入した外国軍艦。 157トン、三本マスト、トップスル・スクーナー型帆装を持つ補助機関付木鉄製砲艦、原名ユウゼニー、慶応三年ロンドンで建造され、速力12ノット(時速22.2Km)。「東京商船大学九十年史」 時速への換算は1ノット(knot,節
一時間に1852mの速度)によります。 |
船の速力についての追加情報です。
安政4年9月、薩摩の島津斉彬が琉球在留のフランス人と蒸気軍艦購入の談判をさせておりますが、この時の購入軍艦の仕様の一つに、
「船の進行、西洋の時計にて一時間に、日本里数四五里を走候もの」があります。1里を4Kmとすると、時速16-20Kmになります。
島津斉彬を始めとする薩摩藩は、当時の蒸気船の速力を正確にとらえていたようです。
1850年頃よりスクリュー艦船が増えてきたようです。「幕末の蒸気船物語、元綱数道著、成山堂書店」に幕末の外国艦船が詳しく解説されています。
この本から、ペリー艦隊来航(1853年)から兵庫開港(1868年)までに来航した艦船の一覧表(PDF_file)を作成してみました。スクリュー船が多くなったこと、そして艦船の速力が分かります。
参考資料:
和船(ものと人間の文化史、石井謙治)、維新と科学(武田楠雄)、東京商船大学90年史
、島津斉彬公伝(池田俊彦)
「幕末の蒸気船物語、元綱
数道著」
成山堂書店(TEL 03-3357-5861)
日本経済新聞朝刊(2007.1.9)文化欄、帆船レース江戸へ激走(松木哲)
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