No.34 日本の祖法「鎖国」のできあがり2006.03.03

   「漂流者にはつらい日本国是」のページ(No.29)で、祖法である鎖国政策の影響の一端を紹介しましたが、この鎖国政策はどのようにして成立したのでしょうか。

江戸幕府創成期すなわち徳川家康、秀忠の頃、日本政府は東南アジアは勿論、スペイン、オランダ、ポルトガルとの交際が積極的に行われていたようです。

慶長14年(1609)7月25日 家康オランダ国王に貿易許可の朱印を与え商館を平戸に設置する。
慶長15年(1610)5月  4日 秀忠スペイン国に通商を許可する。
慶長18年(1613)1月11日 幕府トンキン・ルソン・シャム・カンボジャ・コウチ諸国渡航を許可する。

以上のことからも日本の対外政策は鎖国ではなかったのです。
ブラジルからオランダへ戻った船、17世紀の画家H・C・フロームの作品の一部
◎年表に気になる出来事が二つ見つかりました。                                              絵の上にカーソルを置くと、絵の解説が出ます。

慶長17年(1612)9月29日 オランダ国王 家康にポルトガルの密謀を密告する。
元和  2年(1616)8月 8日 幕府明国外の外国船寄港地を長崎・平戸に限定しキリスト教渡来を禁じる。

日本の対外政策に当時の西ヨーロッパの強国(オランダ・ポルトガル)の政治的確執が影響していることが類推でき、また江戸幕府のキリスト教に対する施策も対外政策に影響しています。
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オランダ黄金時代の芸術家ギルドの役員、1675年ヤン・デ・ブライの作品の一部    豊臣秀吉以来、日本はキリスト教を禁止しましたが、キリスト教も大きくは二つあるようでマルティン・ルターの宗教改革(1517年)以後、プロテスタントとローマカトリックに分かれ、オランダはプロテスタント側、ポルトガルはローマカトリックのようです。

日本にキリスト教を持ち込んだイエズス会はローマカトリック側ですから、幕府はローマカトリックがお気に召さなかったと言えるかもしれません。
そのため、ポルトガルは長崎の出島に押し込められることになります。
寛永11年(1634)5月28日 幕府長崎に出島を築きポルトガル人を移す。
寛永13年(1636)5月       幕府ポルトガル人を長崎出島に隔離する。
寛永16年(1639)7月25日 オランダ商船平戸に来航し幕府はこれを優待して交易する。

幕府がポルトガルからオランダに乗り換えた直接的な原因は「島原の乱(寛永13,14年)」だと類推できます 。幕府はポルトガルを相当に嫌っていたようです。いかに嫌っていたかは右のトピックをクリックしてください。 

また、ポルトガルからオランダへの乗り換えには島原の乱とは違った見方もできるでしょう。
すなわち、1600年代はオランダの黄金時代だったのです。国の勢いが強い場合その影響力は力の弱い国にとって無視できないと思います。

大老酒井忠勝を中心とする幕閣は島原の乱につながるポルトガルからオランダへ乗り換えるための聞き取り調査をオランダに行っております。
長崎聞役日記(山本博文)によると、「日本の朱印船貿易はポルトガルとの友好関係により支えられている面があった。だれにも攻撃されずに東南アジアまで行けたからこそ、豊富な物資を日本に持ち帰ることができたのである。それが、強力なスペイン・ポルトガル両国と戦争状態になることによって、保証されなくなるのである」。

黄金時代のオランダはスペイン・ポルトガル両国を押さえつける力があると幕閣は判断したようです。オランダの傘の下に入ることにしたのです。
東南アジアへのシーレーンの確保が幕閣の最重要課題であり。オランダの存在がまがりなりにもこのシーレーンを確保できる見込みを提供したのかもしれませんが、まだ朱印船貿易への妨害に不安がありました。日本船の渡航はまだ安全とは言えない状況なようです。

    幕府評定所大寄合(寛永16年(1639)5月)での諮問をまとめた酒井忠勝の結論は、「我々は、他の人の奉仕を受けることができる限り、日本の船を国外に渡航させる必要はない(長崎聞役日記)」であった。
すなわち、「オランダの傘の下にいれば、危険なシーレーンに我が日本の船を送る必要はない」という考えになったものと思われます。
軍事的なことは他人にまかせることができれば、まかせてしまうということでしょうか。
日蘭安全保障条約があったとは記録にありませんが「奉仕」と言う言葉がひっかります。オランダから見れば日本は奉仕しても良い、すなわち代償は多く求めないという評価であったと考えられます。

そして、寛文12年(1672)閏6月25日 幕府、外国渡航及びキリスト教を禁制する。.......につながり、さらには文政8年(1825)2月18日 幕府沿海諸大名に異国船打払令を頒布する。に展開されていったのでしょう。この異国船打払令は相当に無謀な政策ですが、多分幕府にはある見通しがあり、大丈夫であろうと思っていたはずです。

外国の奉仕があるので積極的に危険を犯してまで、海外へは乗り出す必要性を認めないという政策です。百戦錬磨の西洋諸国から見れば「島国根性」丸出しではないでしょうか。

参考資料:日本史年表(日本歴史大辞典編集委員会編)、長崎聞役日記(山本博文)、ライフ人間世界史「探検の時代」等
写真はライフ人間世界史「探検の時代」の写真を一部切りとっています。
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無謀な文政八年(1825)の異国船打払令と幕府の見通し

   幕府は「オランダの傘の下」に入り外国渡航を禁止したのではないかとお話しましたが、さらに進んで、外国船に対する無差別砲撃である「異国船打払令」を発布します。これにより入出力がない完全な鎖国状態になって しまったように言われております。

異国船打払令とは、相当思い切った政策です。攻撃された国からの反撃を覚悟の政策です。日本よりオランダ等の方が力が上であることは分かっていたと思いますし、日本が占領される可能性の検討はなされていたでしょう。

当時、異国船打払令の議論に加わっていた勘定奉行遠山景普(かげみち)は次のように言っております。
「近来夷狄のしばしば日本に来舶するは、交戦争闘のことをなし、併呑の志あるなどということにては、さらになきことなり。蛮夷なりといえども、あに数万里の波瀾を経て、戦闘するの理あらんや。万々なきことというべし」。(岩波新書512、高野長英、佐藤昌介著)

幕閣は「数万里の波瀾を経」たヨーロッパ諸国が、わざわざ日本を攻撃するはずがないとの確固たる見通しを持っていたようです。このような確信を持っていれば「異国船打払令」という強硬策も打ち出せるでしょう。

ここで注意しなければならないことがあります。
文政八年の異国船打払令を読むと、
「をろしや船之儀に付ては、文化之度改て相触候次第も候処、いきりす之船先年於長崎及狼藉、・・・南蛮、西洋之儀は、御制禁邪教之国に候間、・・」とあり、打ち払いは、ロシア、イギリスそして南蛮(カトリック教国、ポルトガル)を対象にしているようです。
打ち払いと鎖国については Essays66に関連したことを紹介しています。


英国では産業革命が起こり状況が大きく変わってきました。
蒸気機関の発明という「技術革新」が英国産業の生産性を大きく変え、そしてその影響が遠く、遥かな日本にも及んで来るのです。大きな技術革新が国の政治形態を変えてしまうのです。この象徴が「黒船」でしょう。黒船は大勢の兵隊及び武器を大量に運んでしまいます。
技術革新により社会形態・政治形態を形作る基本的な要素(時間、量など)が変わってしまうのです。


これによる変革を予想することは難しいと思います。
現代において、インターネットが広く普及した場合、社会・政治はどうなるのかを予想するのと同じように難しいかもしれません。

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