No.33 幕末の人口分布、人材は均等に居たのでは
藩は地方分権のお手本か?

幕末と現代(1988年)の日本の人口分布を左の図にしてみました。
棒の高さが人口で、旧国毎に棒が立っております。
幕末頃、一番人口が多かったのは武蔵国(今の埼玉県、東京都、川崎市、横浜市が相当します)で、参考資料によりますと、約177万人になっております。
ちなみに、陸奥(陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代、白河の関より北側、太平洋側)の人口は約169万人です。また、現在の秋田県、山形県に相当する出羽(羽後、羽前)の人口は約94万人になっております。
下の地図は、現代(1988年)の都道府県別人口を旧国に配分してみました。
但し、現代でも一番人口が多い武蔵国(2,095万人)の棒の高さを、幕末の高さと同じにしてあります。もし、現代を幕末と同じスケールで棒を書くと、11.8倍の長さになり、左の図に入りません。
幕末と現代の図を比較すると、
幕末の頃は、人々は全国に散らばっておりが、1世紀を経ると東京周辺に集まっているのがよく分かります。一極集中が歴然です。同じ土地柄、環境の人が非常に多いという、何か偏った人口分布になっております。
左の幕末の人口分布を見ておりますと、幕末を含め江戸時代は全国に点在する都市が中核となって、独自の文化を形成していたように思います。現在「地方都市」という言葉がありますが、江戸時代は「今の地方都市という意味あいの言葉」があったのでしょうか。
江戸時代は一応中央集権の政治であり、中央と地方と言う構図はあったと予想しますが、この図式が文化などにもあったのかは疑問です。幕末の人口分布をみると地方という区分けはなかったのではと思えます。
各地に地方というレッテルのない人材が点在していたのでしょう。
土地の面積と人口の関係を表す人口密度で見てみると、幕末から一番人口密度が増えているのが、相模国(神奈川県から川崎市及び横浜の一部を除いた地域)で
18倍に増加しております。
逆に、人口密度の増加がもっとも少ないのは若狭国(福井県小浜市周辺)で ほぼ1倍、すなわち8万5千人から8万7千人へわずかの増加です。
下表は人口密度の増加率が多い旧国と少ない旧国です。
| 地方(旧国) | 相模 | 下総(千葉県北部) | 河内(大阪府東部) | 武蔵 | 筑前 |
| 人口密度増加率 | 18.2 | 13.3 | 12.4 | 11.8 | 8.6 |
| 地方(旧国) | 若狭 | 但馬(兵庫県北部) | 石見(島根県西部) | 安房(房総南部) | 丹波(京都市の北) |
| 人口密度増加率 | 1.03 | 1.10 | 1.10 | 1.12 | 1.30 |
地方というレッテルのない人材
トロイア遺跡発掘という一大事業を成し遂げたハインリッヒ・シュリーマンが、発掘前に幕末(慶応元年)の日本を訪れておりますが、彼の旅行記に次のような記述があります。
大君が勝手気ままな行動をとれない理由としてまず、彼が昔からのしきたりや法律を遵守していることがあげられるが。しかしそれ以上に、表向きの服従にもかかわらず、実際には対立関係にある大名、すなわち領主たちの存在が大きい。
以上のようにオールコック卿は言うが、この指摘は正しい。国元では大部分の土地を領有し、そこに絶対的権力をふるっている大名たちは、二つの権力の臣下として国法を遵守しながらも、実際には、大君と帝の権威に対抗している。好機到来と見るや、自己の利益と情熱に従って、両者の権威を縮小しようと図るのである。これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。
各地の大名の存在は、今考えるより相当強い力を持っていたようです。将軍家なにするものぞ、というようにシュリーマンらの第三者には見えたようです。この背景には人口の平均的分布があるように思えます。人口の力を見るようです。今、東京の人口が各地に分散したと想定したとき、幕末の政治力学が分かるような気がします。
2006年4月15日(土)の日経新聞・文化欄に「藩に豊かな分権の姿」という題で、藩の研究者の間で、江戸時代の藩と幕府の権力関係が見直されていると紹介されていました。
記事の一部を引用します。
江戸時代の「藩」研究で、当時の幕藩体制から豊かな分権国家のイメージを読み取る説が注目されている。最新の研究から浮かび上がるのは、幕府と緊張関係を保ちながらも独自に政治経済活動を広げた藩のしたたかな姿だ、今後の地方分権のあり方にも光を投げかけている。(引用終)
この記事は、幕府は各大名家の改易(取りつぶし)に代表されるように、絶対的な力を持っていたと思われていたが、そう単純なものではなく、藩、大名、幕府に分けて考えることが必要で、これは道州制が検討されている現在の地方論議に光を当てるものになるかもしれない。
という趣旨です。この見方は上で紹介している、ハインリッヒ・シュリーマンの指摘に通じると思います。
幕末の人口分布のグラフを見ると、幕府の中央集権とは何を管轄していたのかと考えてしまいます。
藩という組織を運営するには、政治的、経済的、文化的そして、これらを維持・改善していく人材などの総合力が必要でしょう。
そして各地の藩には、そこにしかない特徴・人材があり、これが藩が藩たる所以になっているのではないでしょうか。
これは国際化がすすむ中で、藩を国と置き換えて言っても良いような気がします。
簡単に言えば、「あなたのお国の自慢は何ですか」と聞かれて、○○ですと誇らしげに言えること、これが自立した藩がある証しでしょうか。
また、2006年5月4日(木)の日経新聞に、道州制に関連した記事で、「全国を東北、関東などブロック単位でみればそれぞれ欧州一国並の経済規模や人口がある。好調な中部地方の経済規模は愛知、岐阜、三重の三県合計でオランダに匹敵する。近畿はスペインと肩を並べ、東北はベルギーを上回る。四国もポルトガルに近い。」とありました。
地方は経済的に自立できる基盤があるようです。
「幕府と対峙する藩がどのように運営されていたのか」を調べることが、日本を一皮むくために必要なことなのかも知れません。
参考資料:幕末維新の日本(近代日本研究会)、日本地図帳(昭文社)、シュリーマン旅行記
清国・日本(講談社学術文庫)、日経新聞(2006.4.15/2006.5.4),1999/4/16, 2006/4/15
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