No.32 振武軍の武州青梅進攻阻止と浜中忠左衛門

   東京都を西へ向かいますと、中央線の立川駅から青梅線がさらに西へ延びております。 この青梅線の東青梅駅から青梅駅へ向かう途中、右車窓から宗徳寺(そうとくじ、右下の写真) を見ることができます。

宗徳寺の西側、小高い丘の南斜面に墓地が広がっておりますが、 この墓地の中に幕末の頃、青梅が戦闘の場になるのを防いだ人が眠っております。 その名を浜中忠左衛門(本名良亮 通称五郎左衛門 号恭斉)と言いました。
浜中忠左衛門の墓は、南に面した丘の頂上から少し下ったところに、 浜中家の人たちと一緒に並んでおり、墓石には「温良院恭斉義敬居士」 と刻まれております。

   慶応4年(明治元年)5月15日、江戸は上野の山において彰義隊と西郷隆盛が率いる薩摩兵ら新政府軍との戦いが ありました。1日の戦闘で彰義隊は破れ敗走することになります。

彰義隊が敗れた翌日16日、寅の上刻と言いますから今の午前2時半から3時頃 でしょうか、一挺の早駕籠が青梅の西分村から北東の方角へ、乗願寺村、師岡、 大門、今寺を駆け抜け、笹井河原(入間川の宿の手前、青梅と飯能の岐路、狭山・入間・飯能市の境辺り)へ向かいました。

この早駕籠には、西分村の名主浜中忠左衛門 が乗っており、彼は彰義隊の残党が青梅の宿へ入らぬ内に、 笹井河原付近で飯能か秩父へ導くようにとの命を帯びていました。

当時、彰義隊が上野の山を後に、川越街道を武州青梅の宿へ入り、最後の一戦を交え適わぬ時は、 甲州裏街道を大菩薩から塩山に入り、甲州の同志と合流して再挙を計るという計画があるとの情報が 森下の陣屋検地役人曽根五郎左衛門の耳に入っていたようです。
さては大変と言うことで、役人曽根五郎左衛門と青梅の総名主小沢弥左衛門が相談、そして 浜中忠左衛門が呼ばれ、派遣されたのです。

浜中忠左衛門彰義隊(?)と接触したときの話が 2つあります。

一つは、五月(慶応4年)東叡山攻撃、彰義隊脱走の長 大寄隼人なる者本郡に来り 箱根ヶ崎に宿陣し、大総代柳内才次郎、浜中五郎左衛門良亮(浜中忠左衛門)等 箱根ヶ崎に召喚し軍用金調立(達?)を申付け、且つ御岳山を以て回復の根拠となさんと其の地理を図る。 「青梅市史史料集第46号」

二つ目は、渋沢成一郎らは再挙の地を青梅(金剛寺)に求め川越街道を西進してきたと言われる。 途中、笹井河原で、青梅から派遣された浜中忠左衛門に酒、 握り飯を振る舞われ休息する。浜中忠左衛門の説得により、 渋沢らは飯能に向かうことになり、650名ほどが入間川を渡る。

以上の情報によりますと、浜中忠左衛門は、箱根ヶ崎、笹井河原に派遣され、 彰義隊(?) の側も再挙の地を御岳山とか青梅(金剛寺)とか種々考えていたようです。

また、ここで出てくる彰義隊は上野の彰義隊なのか、 後の振武軍なのか不明なところがあります。彰義隊脱走の長大寄隼人なる者はどちらなのでしょうか。

さて、笹井河原で浜中忠左衛門は、八方手をつくし残党の青梅侵入を防ぐのに懸命になった のでしょう。

大日本人名辞書には、
「慶応四年幕府の脱徒青梅に拠らんとし之を近傍の豪家に告ぐ曰く、青梅を以て会津侯の城下となすべし、 軍備己に整い軍資の蓄え己に二千余両に及べりと、良亮以為らく此の小額の金を以て軍資となすの 烏合の衆何ぞ官軍に抗するを得んと乃ち述べて曰く此の地糧米に乏し江戸川越の運搬を扼せられる 時は、大兵の食に乏しきを来さん、公等之に策ありや」と「賊大いに驚き、青梅の不便を唱へ飯能に去る。 青梅の地兵燹を免れたるもの実に良亮の機智に由る」云々。と書かれているようです。

参考資料:多摩周辺 奇談と伝説、青梅市史史料集第46号(浜中良亮)

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