No.31 大政奉還のアイデアが生まれた時、大久保越中守忠寛
大政奉還(慶応3[1867]年10月14日)は日本の歴史上大きな出来事でした。
大政を朝廷へお返しするのですが、このアイデアは5年前の文久2年には有ったようです。文久2年[1862]11月5日、大久保越中守忠寛がお側御用取次から講武所奉行に左遷されております。この左遷理由が 当時政事総裁職であった松平慶永が明治になって遺した「逸事史補」によると、 しかし、この大政奉還のアイデアは消えることなく、大政奉還実現の種々な必要条件が時間とともに確固たるものになって行ったのです。まるで、ダムに水が溜まり始め、その水位が上昇し大きなエネルギーを貯えて行くように、大政奉還の必要条件が時間積分されていきました。 この時期、大久保忠寛が考える開国及び大政奉還を「松平慶永宛ての書簡」から探ってみますと、 2.葉山蕃(しげ)山にても元々同国人の事に候間、異論申も張り候者へ、古店はいさぎよく相譲り、万事任せ候事 3.総べて暴論者の怒りの中にももっともの義これあり、…こなた弱き故、先ず損ずべきなどと申す廟堂癖の姑息論にこれなく、 4.彼らの活路をつけ候事第一に候。これも策計にはこれ無く、暴論と申しながら、実に国のため死を決し候事は江戸人の万々及ばざることにて、愛すべき人々に候。 5.内乱を涎(よだれ)を垂らし待ちおり候、英魯(露)の策に落ちいる事眼前、さてさて残念。 天理に基づいた開国ができない場合、徳川家は大政を奉還すべきという大久保忠寛の書簡はつぎのようなものです。 委任された統治者が、その統治に責任が持てなくなった場合は、自ら統治権を返すか、委任者がその統治権を奪うかのどちらかになるでしょう。通常は、委任者が評価に基づき、委任先を変えるでしょう。 また、大久保忠寛が開国及び大政奉還の意見を「書簡」として送った相手、すなわち松平慶永(春嶽)も大政奉還について意見を持っておりました。大久保忠寛が大政奉還を述べたときとほぼ同じ時期(文久2年5月16日)、松平慶永は江戸城内において閣老に以下のように意見を披露しております。 ・・東照宮(徳川家康)撥乱反正王室御尊崇の厚き当時、皇上叡感の餘、将軍職に任じ官位人臣の極に昇せ、氏の長者として牛車兵杖を賜り・・・将軍を拝し三公の官位に昇り傲然として諸侯に臣事の礼を執らしめ祖先の餘光を仰て二百数十年来天下の富貴を私有し太平の安楽に飽たる、是皆朝恩の悉きに出でずと云ふ事なし。然るに治安の極驕奢に長じ職任を忘れて武備をおこたり外国の兵威に屈して国体を恥辱しあまつさえ宰臣等、幕府の意見を弄し屡々叡慮に悖(もと)り(背き)無道の私政を行ふて忠良を残害し、為に人心の怫戻(怒るさま)を生じ、終に天下の志士違勅の鼓を鳴らし正名の旗を挙勤王討幕を公言するの今日に立至り、此時に方つて幕府は何を以て此罪責を謝せられ何を以て此醜名を雪(そそ)がるべきや速に両敬に等しき特典を辞し、臣事の名分を天下に明示し、・・・諸侯と共に輦下に盟ひ、外国交際武備更張の大策を建てられ・・・ この松平慶永の意見は、簡単に言うと、朝廷の意見をないがしろにし、職責をまっとうできない幕府は諸侯と同じ列にもどるべきではないかと言っているようです。しかし、「大政奉還」の言葉は使っていないのですが、内容は大政奉還にならざるを得ないのです。 大政奉還は大久保越中守忠寛の提案からその姿を現し始めてきたのではないでしょうか。 参考資料:大久保一翁(松岡英夫)中公新書、逸事史補「幕末維新史料叢書4」(松平慶永)人物往来社、旧幕府、松平春嶽公履歴略、マツノ書店。2008.03.03/
1.大久保忠寛の「大政奉還の論」が幕府保守派の忌避するものであった。
2.大久保忠寛の「開国論」が朝廷から忌避されるものであった。と言われております。
大久保忠寛(大久保一翁)の考えは幕府からも朝廷からも敬遠されているのです。
(大久保忠寛が)進で云く、徳川家の傾覆近年にあり、上洛あつて可然、其時幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加り、駿遠参の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なりと諌言す。衆役人満座大笑し、とても出来ない相談なりといへり。とあります。また、大久保忠寛は「…今度はどこまでも攘夷は国家のためあらざる旨を仰せ立てられ、しかる上に、万一京都においてお聞き入れなく、やはり攘夷を断行すべき旨仰せ出だされなば、その節は断然、政権を朝廷に奉還せられ、徳川家は神祖の旧領、駿遠三の三州を請い受けて、一諸侯の列に降らるべし。(大久保一翁、松岡英夫著)」と述べております。
おどろくことに、大久保忠寛の「大政奉還の論理」は5年後、ほぼそのまま現実のものになります。この大政奉還論により、大久保忠寛は左遷されましたので、彼の論は公式なものとして広まっていたと思われます。
「衆役人満座大笑し、とても出来ない相談なりといへり」という論ではありますが、幕閣としては無視できない事として扱いました(直接的には”開国論”が原因の左遷であったかもしれませんが)。
大政奉還の提案・企画が、それを実現するための要因を生み出したはずです。この要因が「積分回路」に「入力」され、醸成・蓄積(積分)され、あるレベルに達して、ついに大政奉還という歴史事象が「出力」されたことになるでしょう。
1.わが子の心得違い制しかね候て、他人に制され候も恥辱の上、後害もいよいよはなはだしく候。左候とて、その子の不良顕然にこれ無き内、制し候は親にても不慈の名を取り候。
大久保忠寛の当時の開国・攘夷議論を端的に表しているように思えます。
開国を拒否し、攘夷に走る心得違いを押さえることが出来ず、諸外国の力が入り込むことは恥辱であり、後々問題が出るであろう。かと言って、今の攘夷論がまったく暴論であると決め付けることができないため、攘夷論者を強く抑えるのは、自国民に思いやりの無い統治者という烙印が押されてしまう。
このように解釈しましたが、大久保忠寛の観点は日本民族対外国勢力という高い位置にあるように感じます。
攘夷論者の怒りは的を得ているものもあり、幕府の和戦旧習論(戦いたいが、軍備が整わないので和とする)とは違うものがある。
大久保忠寛が主張する「実に戦うべき方、天理に候わば、武備の調不調は論に及ばず、直ちに御一戦これあり、勝負は天に御任せにて然るべき御事と存じ奉り候」という気概が暴論者側の怒りの中に見られる。
幕府側の人間が及ばない気概のある攘夷論者に活路を与えるべきである。大久保忠寛は攘夷論者にも期待しております。大久保忠寛は体制より天理を最優先しています。
「万々一それにても御採用相成らず候わば、なお御誠実の足らざる御事と御かえりみ遊ばされ、いよいよもって御臣節尽しなされ、神祖御心中をも御察し遊ばされ、徳川家は御職御辞の御事、御実意より仰せ上げられ、遠駿三御旧国だけにても御願い、…」
この大久保忠寛の「御職御辞の論」から、徳川家は朝廷より統治権を委任された形になっていることがわかります。徳川家が委任ではなく統治者であれば、奉還は責任放棄になるでしょう。
幕末、統治権の委任者である朝廷は委任先を変えるための評価力及びその実施能力がなかったようです。