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No.3 ゆく先は冥土の鬼とひと勝負、天狗党


水戸藩は尊王攘夷の本山といっても良いのでしょうが、
この水戸から維新の英傑と呼ばれる人は ほとんど見当たりません。
なぜ、でしょうか


武田耕雲斎

水戸の勤王攘夷派である天狗党が筑波山で挙兵したのが、今から132年前の春でした。ものの本によりますと、63人が馳せ参じたようです。 中でも一番の年寄り兄弟である軍師山国兵部(71)とその弟で、天狗党の初期の主将であった水戸町奉行田丸稲之衛門(62 ?)という老人兄弟がおりました。

弟の田丸稲之衛門が主将に担がれましたのは、どうも血気盛んな藤田小四郎(23)によってと 思われます。

この藤田小四郎という若者は、「母親似で目から鼻へぬけるような、ぬけすぎる程利口で、 才走った子ではあったが、早熟で調子はずれの所もあった」。との評判がありまして、 62にもなる老人田丸稲之衛門がついて行ったのですから、余程なにかがあったのでしょう。


「母親似で...」とありますが、小四郎のお母さんも変わっておりまして、「気の強い出すぎ者で、気が向かなければ昼時まで布団を被って起き出さず、うっかり起こそうものなら、とんだ口をきいて、人前で主人に赤恥をかかせるようなこともまれではなかった。」と言われておりますから、母子共に普通の人ではないようです。

また、館林藩士の塩谷良翰の懐旧談に見られるように、藤田小四郎は、「そのときいずれもどんすの立付け(袴)、黒羽二重の葵紋付、黒縮緬に葵紋付羽織を着ていた。当時シャレ者、気どり屋の中の流行、黒縮緬の羽織に禁制の葵の紋をつけて得意になっていた」との記述も残っており、大した人でございました。

弟の田丸稲之衛門が藤田小四郎に担がれたのですが、兄の山国兵部もどっちもどっとのようで、藩主の命を受け、若者立原朴二郎と一緒に藤田小四郎一派の説得に赴きましたが ミイラとりがミイラになってしまいました。老人兄弟が若者の熱気にうたれ天狗党の幹部になったようです。このような調子ですから、藩当局から見ますととんでもないことになったようで、山国老人は元治元年5月28日、藩の中枢から罷免されてしまいます。


天狗党の勢いは相当なようで、同じ水戸の諸生党の連中が天狗党追討を幕府へ要請したり、徳川慶篤が水戸の保守派に鎮圧を命じたり、これに反発する榊原新左衛門らが決起するなど、藩内も相当に混乱状態でした。混乱の極みは、天狗党に敗れて水戸へ戻った市川三左衛門らの一派が天狗党関係者の家を襲い、打壊しや放火、そして老若男女を問わず銃殺したと言うものです。


これから水戸の内戦が始まります。

水戸藩は尊王攘夷の本山といっても良いのでしょうが、この水戸から維新の英傑と呼ばれる人は、ほとんど見当たりません。内紛が結果的にそうなったという話しもあります。 水戸藩の内戦は天狗党が那珂湊を出発し西上の途に就くことにより 幕を引くことになります。 元治元年10月23日のことで、この日から、約二百里、50日の行軍が始まります。この行軍は別の機会にすることにしますが、茨城のHAさんのお話によると、現在でも水戸には天狗党西上の道筋をたどる人がおられるようです。

那珂湊から敦賀までの道のりを藩地図でたどることができます(制作中)

右の藩地図アイコンをクリックし、北関東を選択下さい。hanmap.gif (2136 バイト)


話しを老人兄弟に戻します。天狗党が西上することに決めた武田耕雲斎らの陣営である舘山洋光寺の軍議にも幹部であるこの老人兄弟が参加しているようです。 弟の田丸稲之衛門は天狗党の軍制を定めるに際し、総師から降り武田耕雲斎(左上の写真)に変ります。

西上途中の天狗党と高崎藩との下仁田での戦では、兄の山国兵部が軍師として三面奇襲攻撃で高崎藩の軍を遁走させたとあります。

また、諏訪湖の近く和田峠では高島藩、松本藩との戦闘がありましたが、高島藩の兵の中に勤王家立木与平定保という人がおりまして、勤王の有志を討つに忍びず、鎧の腹帯に次の和歌を認め、討死を覚悟して出陣する。 「思いきや夷を伐たでけふとなり 夷伐つべき人伐たんとは」との記録があります。そして、勤王がいかに大きな影響力を持っていたかを忍ばせる事件がありました。

和田峠の戦で戦死した天狗党の中に 今弁慶(常陸久慈の不動院全海)とも赤坊主とも言われた評判の高い僧がいたようですが、それを聞いた高島藩の北沢与三郎という人が、僧の肉を切り取り、持って帰り味噌漬けにしてあぶって食べたという逸話もあります。勤王の士今弁慶の肉を食べれば、勤王の志はいよいよ固いという意味であったと物の本に書かれておりました。


元治元年12月11日天狗党は越前の寒村新保に入り約二百里の行軍は終わります。

天狗党武田耕雲斎以下833名が加賀藩に投降するのですが、その時、異義を唱えたのが老人の山国兵部でして、降伏するのは今までの苦労の無駄にするものであると主張したのですが、なにせ天狗党は疲れておりました。投降した当初は丁寧な扱いで、「薬用として一日酒三斗」など待遇が良かったのですが、 幕府から派遣された総監田沼玄蕃が来てからは、敦賀の鰊倉の土間にムシロで、内部は真っ暗、食事はやきむすびを朝と夕に一個、それにぬるま湯に変りました。 このような状況でも70を越した老人山国兵部は、気丈な性格だったようで、軽い冗談を言って若者を笑わせたりしていたようです。 そして、悲痛な辞世が多い中で、山国兵部老人のそれは、「ゆく先は冥土の鬼と一と勝負」と詠んでおり、人間が少々違うのです。 また、元治2年3月に天狗党関連の家族が処刑されておりますが、この山国兵部の弟、田丸稲之衛門の次女八重(17才)も一句遺しております。 「引きつれて 死出の旅路も 花ざかり」、この家系は一味違うようです。

参考資料:覚書 幕末の水戸藩等

水戸の天狗党や水戸幕末争乱は、茨城大学附属図書館のページがお勧めです。


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追加・修正/2013.06.30

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