No.29 漂流者にはつらい日本国是、それからの解放

  文政8年(1825)2月18日、幕府は沿海諸大名に異国船打払令を頒布しました。この国際化に逆行する幕府令は天保3年(1832)7月24日の薪水給与令まで7年間続きます。諸外国の振る舞いに対して幕府には我慢ならないことがあったのでしょう。何が我慢できなかったのか、幕府評定所の考え方で見てみます。

異国船打払いの儀については、文政八酉年の御書付けに、いぎりす船、先年長崎において狼藉におよび、近年は所々へ乗り寄せ、薪水食料を乞い、去年に至りては、みだりに上陸し、あるいは廻船の米穀、島方の野牛等を奪い取り候段、おいおい横行の振るまい、そのうえ邪宗門を勧め入り候致し方も相聞こえ、かたがた捨ておかれ難きことに候。一体いぎりすに限らず、南蛮西洋の儀は、御制禁邪教の国に候間、 以来、いずれの浦方においても、異国船乗り寄せ候を見受け候わば、そこに有合い候人夫を以て、有無に及ばず、一図に打払い、・・・無二念打払いを心がけ、図を失わざるよう取計らい候ところ専要、とこれあり、いわんや交易願望の主意を含み、信義を唱え、漂民をおとりにいたし、利を計り候段、なおさら不届きの仕方につき、・・向後いよいよ右御書付けの趣きを以て、無二念打払い候儀、もちろんにこれあり。

上の記述は蕃社の獄の発端とも言うべき文書と思われ、尚歯会の例会で、評定所の記録方芳賀市三郎がひそかに示した評定所一座の答申案といわれます。

この異国船打払令は漂流者にとって残酷な処置となってしまいました。

天保3年8月、出雲地沖合にて難風に遭い漂流した越後国蒲原郡中村浜百姓戸三郎他が、ロシア船で択捉島に送られてきましたが、なんと役人が鉄砲を撃ち、上陸することが出来なかったのです。仕方なく、夜、人のいない島に上陸したようです。

また、天保8年6月11日、日本の漂流民を載せた、あのモリソン号が琉球の那覇に停泊していたとき、琉球の役人は、「モリソン号を離れて、自分達の船で鹿児島へ行くよう説得」しています。「異国船打払令」を意識した役人の忠告だったのでしょう。

モリソン号の船上で計画の立案者キングは、日本人漂流者を集め、長崎へ行ってもう一度、受け入れの保証を得るよう努力したいと述べましたが、日本人達は中国へ送り返してもらいたいと望んだようです。江戸幕府の政策とその威権は、目前に故郷を見ながら上陸を断腸の思いで断念せざるを得ないほどのものだったようです。

生まれ故郷を目前にして上陸を拒否された日本人漂流者
の心情、そして幕府の鎖国政策の人道的問題性を描いている小説「海嶺(三浦綾子)」の創作後記の一部を引用します。
「漂流! 江戸時代における漂流は、幕府の鎖国政治が作り出した人災とも言えた。なぜなら、鎖国の禁を厳にする余り、造船技術が優れているにもかかわらず、遠洋航行に耐える船を造ることを許さなかったからである。・・・・
船が伊勢湾に入り、小野浦の沖を通った時、私は涙が流れてならなかった。彼らはどんなにこの小野浦に帰りたかったことであろう。どんなにこの小野浦の海を見、山を見、あの砂浜に立ちたかったことであろう。・・・・
一体、何がモリソン号の悲劇をおこしたのか。そう私は鋭く誰かに問いたい思いで、この小説を書きつづけた。


日本はなぜ鎖国政策をとったのかは essays34 日本の祖法「鎖国」のできあがりを参照下さい。また、大きな船を製造させない政策とは何なのかはページを改めて考えでみます。

このモリソン号への日本側の対応が「蕃社の獄」を引き起こし、異国船打ち払い令の見直しを行わざるを得ない状況になったのではないでしょうか。

そして天保13年7月24日、幕府は文政八年の異国船打ち払い令を廃止し、薪水,食料の給与を許す(薪水給与令)ことになります。

異国船渡来之節、無二念打払可申旨、文政八年被仰出候。然る処、当時万事御改正にて、享保、寛政之御政事に被復、何事によらず、御仁政を被施度との難有思召に候。 右に付いては外国之ものにても逢難風、漂流等にて食物薪水を乞候迄に渡来候を、其事情不相分に、一円に打払候ては、万国に被対候御仕置とも不被思召候。

この薪水給与令により武力による打ち払いはなくなりましたが、まだなお、厳しいものがありました。

天保14年8月6日(8日とも言われる)に出された幕府令は次のようなものでした。

外国え漂流の者連越候節受取方の事     御勘定奉行へ

日本人の内、外国へ漂流致し候ものは、手寄次第、唐阿蘭陀の内へ受取可連越候。其外の国々より連越候とも不請取旨、此度在留のカピタンへ申渡、外国のものとも為致通達候。
右に付ては、向後唐阿蘭陀の外、外国のもの共、若漂流人を連渡候儀有之候とも、決して受取申間敷候。外国の船何れの浦々へ乗寄候とも、去寅年相達候通、薪水食料等乞候はば、其廉而己用弁致し遣、早々出帆為致候様取計可申候。

かたくなな幕府の姿勢です。自己の中心へ向かっています。西欧諸国も自己の中心へ向かっていると思いますので、幕府の姿勢を批判する気はありません。問題は、同胞につらさを与えるしか対策がない為政者の感覚ではないでしょうか。

さて、このような漂流民にはつらい国是はいつまで続いたのでしょうか、文久3年12月に遣欧使節がヨーロッパに向かいましたが、このときのメンバーであった河田熈が明治になっての後日談に、「しかしその時分の法ですと、漂流人を他国へ連れて行くことは出来ず、本国へ送り返さんければならぬというので、・・・(旧事諮問録)」とありますので、文久3年時点で漂流民は祖国へ帰ることができたようです。しかし、ついでにもう一つ別な国を見ることは禁止されているようです。

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