No.27 蕃社の獄「その方、意趣遺恨にても受け候者これありや」(5)
蕃社の獄は蘭学の弾圧と言われておりますが、このように簡単に割り切れないのではないかと思っています。
弾圧される蘭学と見逃される蘭学があるようです。
蕃社の獄の摘発側の人物として目付鳥居耀蔵、小人目付小笠原貢蔵そして御納戸口番花井虎一らがおりますが、この中で小笠原貢蔵について調べますと、興味あることが出てきました。
蕃社の獄の3年後、天保13年11月6日付の「縁組奉願覚」(左の写真)なる文書があります。この文書は小笠原貢蔵の養女と花井虎一が縁組みをしたことが書かれております。すなわち、蕃社の獄の摘発役人の小笠原貢蔵と花井虎一が親子になったのです。
また、小笠原貢蔵は娘頼(より)に養子を迎えておりますが、この養子である小笠原甫三郎は、江戸湾の要地調査のとき測量技師として参加、鳥居耀蔵のクレームにより帰府した奥村喜三郎の甥にあたるようです。
小笠原甫三郎、花井虎一ともに蕃社の獄が終わってからの天保13年に小笠原貢蔵を養父としております。
花井虎一は宇多川榕庵の門で蘭学を学んだと言われておりますし、小笠原甫三郎も測量技師内田弥太郎や奥村喜三郎に師事して蘭学を学んでおります。
蘭学を摘発する役人の親戚筋に蘭学を学ぶ人が居るのです。お役目に差し障りが出ないのでしょうか。
蕃社の獄が蘭学一般を対象にしていたならば、これらの養子縁組みは難しいのではと予想します。特に甫三郎を養子とすることは難しいのではと思います。
目付鳥居耀蔵は蘭学を摘発したのではなく、額面どおり渡辺崋山や高野長英らの「幕政批判」を摘発したのでしょう。
渡辺崋山宅で押収した反古の中の「慎機論」はその最後で為政者の無能を攻撃しております。
「ああ今それ、これを在上の大臣に責めんとすれども、もとより頑固の子弟、要路の諌臣を責めんと欲すれども、賄賂の倖臣、ただこれ心有るものは儒臣、儒臣また望み浅うして、大を措き、小を取り、一にみな不痛不癢の世界となりしなり。今それかくのごとくなれば、ただ束手して寇を待たんか」。
渡辺崋山は責めんを連発しております。具体的に何か責める手を打ったのでしょうか。
そして、判決文は、
「・・・その外、恐れ多きことどもを相認め、御政事を批判いたし候段、畢竟海岸手当薄く候ては、不慮の儀これある節、国家の御為にも相成らざる儀と、一途に存じすごし候心底をもって、自問自答の心得にて、右の通り認めかけ候えども、はからずも容易ならざる文勢に流れ候につき、恐れ入り候儀を相弁え、いまだ稿を終え申さず、下書きのまま、仕舞いおき、他見いたさせ候儀は、さらにこれなき由は申し立て候えども、右始末、公儀をはばからず不敬の至り、重役相勤め候身分、別して不届きにつき、主人家来へ引き渡し、在所において蟄居を申しつく」。
渡辺崋山は藩の重役ですから、幕府側の見方も通常の藩士と違うと思われます。組織の秩序が優先されているはずです。今風に言えば管理責任でしょうか。部下と一緒になって批判するのではなく、もっと建設的な提案をせよ、と言われそうです。
渡辺崋山は幕政をただ批判していたのでしょうか。責任のない下級の藩士ではないのです幕政には参加出来ない体制でしょうが、なにか献策を行ったのでしょうか。もし、幕政批判のみでしたら彼はただの一介のもの知り学者あるいは「評論家」でしかないと見られるでしょう。しかし、藩士が幕府に献策することは、相当に困難なことかもしれません。
5回のシリーズで「蕃社の獄」を書いてみました。当初、蕃社の獄は二つの遺恨が大きな要因になっているという前提で書きましたが、どうも妖怪(耀甲斐、目付鳥居甲斐守耀蔵)の方は遺恨らしきものはないような気がします。後からはじまる天保の改革でのイメージが強いのでしょうか、これが鳥居耀蔵のイメージを作っているようです。
納戸口番花井虎一には遺恨らしきものがあるようですが、残念ながら資料不足で不明のまま一旦終わりにします。
参考資料:幕臣小笠原甫三郎の生涯(横浜開港資料館、石崎康子)
写真の「縁組奉願覚」は横浜開港資料館の御好意による。
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