No.24 蕃社の獄「その方、意趣遺恨にても受け候者これありや」(2)
天保10年1月9日、目付鳥居甲斐守耀蔵と代官江川太郎左衛門は、早朝江戸を出発し備場新設用地の調査に向かいました。
用地の調査ですから測量は必要となるでしょうし、測量技術者の同伴が要求されますが、鳥居も江川もそれぞれ独自の測量者を
連れていきます。
江川側の測量技師については興味ある紆余曲折があるのです。江川側の測量技師は、鳥居、江川が江戸を出発してから24日後
に合流します。江川太郎左衛門が江戸湾の要地調査を命ぜられ、それを知ったのが天保9年12月8日、それから、ほぼ2ヶ月が経
過しております。
江川側の測量技師が決まるまでの紆余曲折を整理してみます。
| 天保 9年12月 8日 | 江川が備場新設用地の調査を命ぜられたことを知る。 |
| 天保 9年12月23日 | 技師選出を依頼していた渡辺崋山から高野長英の門人と言われる内田弥太郎、奥村喜三郎を紹介される。 |
| 天保10年 1月 3日 | 江川が内田の支配筋である松下内匠頭乗譲から内諾を得る。 |
| 天保10年 1月 7日 | 江川が内田の正式願書を勘定奉行に提出する。 |
| 天保10年 1月 8日 | 内田の測量付き添いが差し止められる。 |
| 天保10年 1月 9日 | 鳥居、江川が江戸を出発。 |
| 天保10年 1月11日 | 江戸大雪、二尺五寸程積もる(武江年表)。 |
| 天保10年 1月19日 | 内田の測量付き添いの内諾がある。 |
| 天保10年 1月21日 | 奥村喜三郎の測量付き添いが許される。 |
| 天保10年 2月 3日 | 測量技師内田、奥村が合流する。 |
| 天保10年 2月 7日 | 奥村が鳥居の抗議により帰府を命ぜられる。 |
測量技師内田弥太郎が付き添い差し止めを受け、のちに許されたこと、奥村喜三郎が鳥居の抗議により帰府を命ぜられたこと、これ
らの理由が気になります。
内田弥太郎が付き添い差し止めとなった理由は不明ですが、奥村喜三郎の方は、増上寺御霊屋代官であり、不浄な寺侍を同行させ
るわけにはいかないというのが理由のようです。これが理由になるのかどうか、言いがかりのような気がします。
最終的には、鳥居側の測量技師は小笠原貢蔵、江川側の測量技師は興味ある紆余曲折がありましたが、渡辺崋山の配慮による内
田弥太郎が測量に携わりました。
調査期間中、鳥居は江川に結構気をつかっております。
| 天保10年 1月15日 | 鳥居が江川に病気(感冒)見舞いを出す。浦賀、観音崎より。 |
| 天保10年 2月16日 | 鳥居が養母の里から送ってきた鰈一尾を江川に送る。 |
鳥居と江川は初めから、犬猿の仲ではなく「耀蔵と(江川)英龍とはむしろ親しい間柄であった」ようです。(松岡英夫著、鳥居耀蔵、中
公新書)
このことは、後の蕃社の獄に江川が連座していないことからも類推できるのではないでしょうか。
さて、測量チームの結果はと言いますと、小笠原貢蔵側は昔ながらの絵図、内田弥太郎側は多分精密な地図であっただろうと予想され
ます。この地図の出来栄えの差に鳥居耀蔵、小笠原貢蔵側が赤恥をかいただろうと言われておりますが、果たしてそうでしょうか。
当時、普通に用いられている製図法で十分用は足りていたはずで、西洋技術で書かれた測量図は受け取る側もなじみが無く、実質の利
用価値は、さほど差がないのではと思います。製図法を評価する人間の多くは幕府の人ですから。..................実際に見たいものです。
したがって鳥居側が地図の制作技術の差で恥をかき、これが遺恨となったとの説は疑問です。
この備場新設用地の調査が終わり、江川が報告書を提出するや否や、目付鳥居甲斐守耀蔵は、その配下
の小人目付小笠原貢蔵らに渡辺崋山らの調査命令を出し、そして「蕃社の獄」が始まるのです。
では、鳥居より遅れて提出された江川の江戸湾の要地調査報告書はどんなものであったのでしょうか。![]()
参考資料:鳥居耀蔵(天保の改革の弾圧者、松岡英夫)等
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