No.22 徳川斉昭の押懸登城と昼食の弁当

   安政5年6月24日、徳川斉昭は相当な剣幕で江戸城へ乗り込みました。

この頃の政治的な大きな問題は、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の無勅許調印という 二つの大きな問題でした。これらに関して幕府の最高責任者である大老井伊直弼を詰問 しようというのが登城の理由だったようです。

ii_nariaki.gif (43541 バイト)この日は御三卿の定式登城日でありましたが、残念ながら徳川斉昭の登城日ではありま せんでした。定式登城日以外の登城は不時登城あるいは押懸登城と言われております。

将軍継嗣問題では一橋慶喜と徳川慶福(家茂)のどちらを選択するかという状況でして それぞれ肩入れする派に分かれての運動がありましたし、無勅許調印問題では、勅許なし で条約調印するとは何事かと非難ごうごうでありました。

幕閣の意向と真っ向から対立する老公徳川斉昭がわざわざ登城したのです。
これは一悶着 あるであろうとは誰もが思ったことでしょう。

まして、「調印いたし候儀は、御違勅に付、今日は掃部頭(井伊直弼)に腹切らせ申さず では退出致さずとて大音に御罵りなされ・・・」(井伊側の公用方秘録)
切腹を迫るという大変な迫力なのです。
老中の間部下総守などは、何とかなだめるので大老井伊直弼には逢わせないようにしよう と相談がなったくらいの剣幕でした。

岩瀬忠震が橋本左内に語ったといわれる記録があります。
「諸有志輩、今日こそ老公(斉昭)の大議論にて忠邪黒白も分かるべけれとて、すでに大老 初の談判となりしより、事の子細も泄れ聞こゆるやと、させる所用もなきを、用ありげに かわるがわる松の廊下を往来して、少々声高に聞こえしときは、今や老公の暴論の出で たるぞやなどといいて、片唾をのみ、耳をそばだてたり」
江戸城内は斉昭の様子が気になって気になってしょうがない有り様でした。

大老井伊直弼は「御断申ては憶し候様思召され候ては、上之御威権にも拘り申すべく」と のことで、徳川斉昭に逢っております。

さて、両雄対決になりましたが、どうも斉昭は最初の意気込みが見られなかったようで、 会談が済んでから、気になった大久保右近将監(忠寛)が京都情勢を聞くことを口実に 大老井伊直弼に聞きましたところ、 「今日は珍敷御三家方の不時御登城なりしが、如何なる御用候ひしやと問ひたるに、大老 何か色々申立られたれど、さしたる事にもあらず。老公々々と鬼神の如くいひしかど、おもひ の外何ばかりの事もなしと打笑はれしとぞ。・・・・
老公多年の威名、今日に至って烏有(うゆう、皆無)となれりと、 諸有志の失望限りなしとぞ」(昨夢紀事) という有り様でございまして、なんとも拍子抜けのようでした。

徳川斉昭らが登城したのが午前10時頃、退城したのは公用方秘録によると八つ時(午後2時)頃 のようです。

正午頃、目付の駒井右京が、押懸登城の斉昭らの昼食をどうしましょうかと井伊にお伺いをたてて おりますが、井伊は「押懸登城であるから弁当の用意はあるであろう」と答えているようです。
徳川斉昭らは弁当を持参したのかどうか不明ですが、江戸城での昼食は幕府が御台所に準備 していたようです。 享保
20年に次のような書付が出ていますので、それ以来守られていればのことです。

一、殿中昼計相詰候面々者、於御台所御料理被下事候間、部屋々々へ食物等持参之儀、無用 たるべく候。
     (大江戸おもしろ役人役職読本、歴史読本)

御台所を預かる人から見ますと、あらかじめ準備する必要がありますので急な昼食準備は難しかった のではと予想します。
まして偉い方の昼食です。簡単には済ませられないというのが普通でしょう。 江戸城内での昼食はどのように頂いたのでしょうか。
「レストラン江戸城」があったのでしょうか また、「職員食堂」があったのでしょうか。

徳川斉昭と井伊直弼の会談は昼食前なのか後なのか気になります。 興奮気味の徳川斉昭は昼食を取らず、さしたる成果もなく午後2時頃下城したのではないかと、 類推します。「腹が減っては戦ができない」のです。

将軍継嗣問題はともかく、勅許なしで条約調印するとは何事かという問題は論争するのに十分 なテーマだと思いますが、どうも論争し詰問するところまでは行っていないようです。 押懸登城は感情的な行動に思えます。昼食を準備して腹ごしらえ十分な状態で、じっくり論争しない と成果が得られないという教訓でしょうか。

それにしても、江戸城内での昼食は弁当持参でしょうか、食堂でしょうか、ご存知の方、ご教授ください。
五郎丸延さんよりご教授いただきました。ご教授内容に飛ぶ

上の絵は左が井伊直弼、右が徳川斉昭で、別冊太陽(平凡社)の写真を加工しました。

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五郎丸延さんからのご教授
.........ありがとうございました。1999.11.10

>昔、大猷公(=3代将軍 家光)御噺(おとぎ)の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
>毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
>この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。

>珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、
>皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、
>御中食(昼食)の時は是を召し上げられ、その包みたる紙に付きたる飯粒を拾いて食い、
>紙のはしを伸ばして涕(鼻水)をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。

>御伽(おとぎ)衆という名誉ある役職があり、毎夜、秀吉や家康などの支配者に四方山話(よもやまばなし)をしていたとされています。

>お茶は出ます。城内では、女の居場所は大奥だけですから、茶坊主が出します。
>柳沢吉保は、大奥へ呼ばれて食事していたようですが、彼の夜食はワイロの対象になったようです。
>柳沢は自分の屋敷へ帰ることが少なく、しばしば江戸城内へ詰めていた、とされます。
>そこで彼の好物を調べ、贈賄側は毎夜、日替わり弁当を贈ったとのことです。

>毛利甲斐秀元:           陪臣(大名の家臣)でありながら、徳川将軍家の直臣扱いを受けた
>丹羽五郎左衛門長重:織田信長の重臣であった丹羽五郎左衛門長秀の子。
>蜂須賀蓬菴至鎮:        早くから木下藤吉郎秀吉に仕えた子六正勝の子孫。
>林道春:                        幕府大学頭をつとめた林家の初代。羅山とも言う。当代一流の儒学者。
>阿部対馬守:                名は重次(しげつぐ)。家光側近の若手グループの一人として頭角をあらし、「6人衆」(若年寄の起源)に就任
                                        さらに寛永15年(1638)から慶安4年(1651)まで老中。家光に殉死。

江戸時代の初期の頃の面白いお話でした。

   家康と共に戦国を勝ち抜いてきた老武将たちが、まるでピクニックよろしく弁当を広げている風景が浮かんできます。
お互いの弁当のおかずをつつきながら、昔話に花を咲かせているのでしょう。
阿部対馬守などは、昼食に握り飯を持参し、包み紙についたご飯粒を丁寧にとり、その紙のしわをのばして鼻をかむなど、
奥方が見ると「みっともない」と白い目で見られそうですが、好々爺たちのなんともほのぼのとした光景です。

幕末より相当前のお話でした。夜食は弁当持参かもしれませんが、「レストラン江戸城」「職員食堂」についてはいまだ不明です。

江戸城の職員食堂があったというお話を得ました。右のTopicをクリックしてください。

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