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No.22 徳川斉昭の押懸登城と昼食の弁当
安政5年6月24日、徳川斉昭は相当な剣幕で江戸城へ乗り込みました。
この日は御三卿の定式登城日でありましたが、残念ながら徳川斉昭の登城日ではありま
せんでした。定式登城日以外の登城は不時登城あるいは押懸登城と言われております。
将軍継嗣問題では一橋慶喜と徳川慶福(家茂)のどちらを選択するかという状況でして
それぞれ肩入れする派に分かれての運動がありましたし、無勅許調印問題では、勅許なし
で条約調印するとは何事かと非難ごうごうでありました。
幕閣の意向と真っ向から対立する老公徳川斉昭がわざわざ登城したのです。
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五郎丸延さんからのご教授.........ありがとうございました。1999.11.10
>昔、大猷公(=3代将軍 家光)御噺(おとぎ)の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
>毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
>この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
>珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、
>皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、
>御中食(昼食)の時は是を召し上げられ、その包みたる紙に付きたる飯粒を拾いて食い、
>紙のはしを伸ばして涕(鼻水)をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。
>御伽(おとぎ)衆という名誉ある役職があり、毎夜、秀吉や家康などの支配者に四方山話(よもやまばなし)をしていたとされています。
>お茶は出ます。城内では、女の居場所は大奥だけですから、茶坊主が出します。
>柳沢吉保は、大奥へ呼ばれて食事していたようですが、彼の夜食はワイロの対象になったようです。
>柳沢は自分の屋敷へ帰ることが少なく、しばしば江戸城内へ詰めていた、とされます。
>そこで彼の好物を調べ、贈賄側は毎夜、日替わり弁当を贈ったとのことです。
>毛利甲斐秀元:
陪臣(大名の家臣)でありながら、徳川将軍家の直臣扱いを受けた
>丹羽五郎左衛門長重:織田信長の重臣であった丹羽五郎左衛門長秀の子。
>蜂須賀蓬菴至鎮:
早くから木下藤吉郎秀吉に仕えた子六正勝の子孫。
>林道春:
幕府大学頭をつとめた林家の初代。羅山とも言う。当代一流の儒学者。
>阿部対馬守:
名は重次(しげつぐ)。家光側近の若手グループの一人として頭角をあらし、「6人衆」(若年寄の起源)に就任
さらに寛永15年(1638)から慶安4年(1651)まで老中。家光に殉死。
江戸時代の初期の頃の面白いお話でした。
家康と共に戦国を勝ち抜いてきた老武将たちが、まるでピクニックよろしく弁当を広げている風景が浮かんできます。
お互いの弁当のおかずをつつきながら、昔話に花を咲かせているのでしょう。
阿部対馬守などは、昼食に握り飯を持参し、包み紙についたご飯粒を丁寧にとり、その紙のしわをのばして鼻をかむなど、
奥方が見ると「みっともない」と白い目で見られそうですが、好々爺たちのなんともほのぼのとした光景です。
幕末より相当前のお話でした。夜食は弁当持参かもしれませんが、「レストラン江戸城」や「職員食堂」についてはいまだ不明です。
江戸城の職員食堂があったというお話を得ました。右のTopicをクリックしてください。![]()