No.21 飯能戦争の前夜

  彰義隊は頭取渋沢成一郎と副頭取天野八郎の意見衝突により2つに別れたのですが、なぜか頭取の方が彰義隊を出た恰好になりました。普通は副頭取が出るのではないかと思いますが、ここが不思議なところです。

Essays17で述べたように渋沢成一郎は自ら進んで頭取になったようには思われません。したがって、彰義隊の多くの隊員の気持ちとは少し離れていたのでしょう。渋沢の「尽忠報国の実践(君家の辱を一洗)」と天野八郎以下の「反逆薩賊の戮滅」という最優先目的の違いではないでしょうか。このため、頭取ではありますが、自ら彰義隊を離れ、振武軍を形成することになったのではと予想します。

彰義隊を離れた渋沢成一郎らは慶応451日頃から田無村(東京都田無市)に集まり始めました。
振武軍は田無村の西光寺を本陣とし、光蔵寺、太子堂、観音寺に屯集します。そして、振武軍は軍資金調達のため周辺の村々に回状を廻すのです。

宛先 蔵敷村(東京都東大和市)名主、組頭中
右のものへ申し談じたき義これあり候間、村役人差添えこの書付披見次第田無村屯所へ罷出づべきもの也。
辰五月三日 振武軍 目付方

これが振武軍の名前で出されました。申し渡したいことがあるので、田無屯所へ出頭のこと、という強制です。

また、この時の振武軍組織が見られますが、惣隊長渋沢精一郎事大奇隼人となっており、変名を使っております。また、軍の軍目付は渋沢平九郎と言われていますが、この文書では軍目付久保喜三郎となっており、これもまた、変名なのでしょうか。

村々から軍資金を調達するのに変名を使うというのはどういうことなのでしょうか。何か後ろめたさがあるのでしょうか。
軍資金調達の目的は「徳川氏再興」となっております。主君徳川のための軍資金調達に変名を使うということはちと問題があるのではないでしょうか。

回状がまわって5月5日、蔵敷村の代表が田無の本陣に出頭しました。ここで振武軍は代表に金20両の供出を強要しますが、ここはすんなり行くはずはありませんで、結局、振武軍は金5両の請取証書を書いております。この調子では軍資金の集まりはたかが知れているでしょう。日々の食事代はどうなっているのでしょうか、まったくもって計画性がない、ただ憤慨のみの集団なのかもしれません。

512日深夜、振武軍が田無村を引き払い箱根ヶ崎(日光街道と青梅街道の合流点)に移動します。ここで彰義隊の戦争当日まで滞在しています。そして上野の戦い当日(515日)、振武軍は上野へ向かいますが彰義隊敗走の知らせがあり田無に戻ってしまいます。

翌日(516日)、田無の振武軍のところに敗退した彰義隊の一部が合流します。

これら彰義隊の敗残兵や振武軍の動静は近辺の村にとっては非常に気になることでして、情報交換はすばやくなされていたようで、この日朝早く、青梅は西分村の名主浜中忠左衛門が早駕籠で、笹井河原付近に向かい彰義隊の残党が青梅の宿へ入らぬよう手を打っております。

517日、振武軍と彰義隊の合計1,500から1,600人が田無村を出発し飯能へ向かうことになります。そして5日後、飯能の町を火の海とした飯能戦争が始まるのです。 

参考資料:里正日誌の世界(東大和市史資料編)

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