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No.2 濡れ手に粟の小判の買いあさり

気まぐれに「幕末資料庫」で前に住んでいた青梅をキーワードに検索してみますと、 小判買いの話しが出て来ました。


....万延元年(1860)正月10日頃、武蔵国南小曾木(おそぎ)村(現青梅市小曾木)の部落まとめ役である 市川庄右衛門のところに小判や小粒金(一分金)を買いに来た者があるのです。一両小判を一両三分、小粒金なら一両を一両一分で買い取ったようです。さらに28日頃には、交換比率 が上がりまして、
小判一枚がなんと二両二分から三両になりました。
この小判買いは、武蔵国ばかりではなく、越後の北五百川村(現新潟県南蒲原郡下田村)でも見られたと いうのですから全国的な広がりと思われます。越後では、慶長金貨一両が五、六両でありました。

濡れ手に粟とはこのことでしょうか、青梅の市川庄右衛門さんは交換 したのでしょうか。何かうさんくさい気配ですが、結局は交換したのではないでしょうか。 交換とは、古い金貨と新しい金貨のそれでしょう。古い金貨の方が金の含有量が多いのではないかと思います。日本の金貨の金含有率の比較はいずれやりたいと思います。

....なんでこんなうまい話しになったのでしょう。

武蔵国で小判漁りがあった10日後の夜10時頃、幕府は「小判の直増通用令」を出すのです。 このお触れは天保小判の一両が三両一分二朱に、安政小判の一両が二両二分三朱にするというのです。 大変なことです。

....小判をお持ちでない方には遠い話しですが、持っている方は両替に走るのは当然でございまして、 各地の両替屋は大混乱になりました。引替所では「番札」を渡して整理しますが、たちまちなくなります。 こういう場合は、今も同じでダフ屋の登場です。番札の値段はあがる、にせ番札もでる。あげくのはてに 番札を求める人、両替する人を相手にそば、白玉水を売る者が出るというなんとも大変な騒ぎです。「小判の直増通用令」の触れが出る10日前には、小判の買い漁りが武蔵国でありましたので このお触れが事前に洩れていたのでしょう。

....洩れていたと言えば、「安政紀事」には、 「これより先(通用令を出す前)井伊(大老井伊直弼と思われます?)、人を発して金貨 を買入れしむ。京師、松坂、安濃津及び野州佐野近傍金貨殆ど尽す。依て巨利を得たり。聞者卑しとせざるなし」 とあります。
これが本当なら、チョットやりすぎでしょう。このあと3月のお雛祭りの日、井伊直弼は桜田門外で命を落とします。 巨利を得たという話しが大きくなり、暗殺者の耳にも入ったかもしれません。 一太刀で済むところを二太刀になる話しではありませんか。

なお、小判の買い漁りは、金銀比価の違いによる小判の海外流出が直接の原因かもしれません。 どちらにしても、金が集められました。幕府が初めて遭遇した国際通貨問題の余波でしょう。

なにせ、利潤を得るには小判の金をどこかで売らなければなりません。この時代は上海と香港の金市場しかなかったようです。あのハリスさんも小判売却のため上海方面に出かけたとの話しもあります。買い漁った小判を得た外国人は、ドルで3倍の濡れ手に粟の利益を得ていましたので、小判の流出対策は緊急です。幕末でも日本は
「黄金の国」であったようです。


このような理不尽なことが起こったのですが良識ある見解もありました。

香港のヴィクトリア主教ジョージ・スミスの記録が残っております。

  ほとんど法外なまでの金額の一分銀を要求して申請書が出された。要求額のなかには、ひとつひとつ数えていけば死ぬまでかかりそうな長い数字の列が記入されたものもあり、それを脅迫や侮辱まがいの言葉でもって日本人に押し付けたのだ。そのような状況では、当然、善良な商人たちも邪悪な連中の同類とみなされて糾弾の対象となるだろう。かれらがみずからの潔白を照明して自己防衛をする唯一の方法は、正直・真実・公正の旗のもとにはせ参じ、健全な世論をひろめ、そのような非難すべき行為を排斥して、社会の品位を高めるように誠実なキリスト教徒の道徳的共同社会をつくりあげることだ。イギリス公使の痛烈な批判を招いたような両替制度の悪用が、ひろく商人社会から排除されるようになるまでは、真実と礼節の欠けた社会の構成員は不幸にして当然の損害をこうむるだろう。善人も悪人もひとしく非難と不名誉のそしりを浴びるだろう。

小判の流出に幕府は手をこまねいていたのでしょうか?
横浜で貿易が始まったのは、安政6年6月2日(1859.7.1)ですが、ほぼ1ヶ月後(安政6年7月)、幕府は緊急の触書を出しております。
神奈川表において、貿易創始候処、外国人共とかく新古小判を相望、小判にて買入候諸物の価、格外に引上げ相渡候間、横浜居住の商人共、御府内の小判為仕入、追々罷出候やに相聞、御府内商人共も、右の景気承り是又小判所持罷越取引可致哉、左候ては御国の金貨外国へ追々流入候は、必定にて、以之外の事に付、此上心得違のもの無之様、名主共一同不洩様、早々可申通旨被仰渡奉畏候、以上 

このままでは、小判が外国へ流れてしまうので、流れないようにしなさい。というお触れですが、付け焼刃とはこのことでしょうね。
長崎では、一応外貨を扱っていたはずですから予想はできたと思っていますが.....
根本的な改善がなければ、解決しないでしょう。このお触れが出ても、隣の人がモウケテいるとお触れは無視でしょう。
関連情報です→(幕末も黄金の国ジパング 幕末物語No.50)

幕末の金流出日本銀行金融研究所 貨幣博物館に解説があります。

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ハリスの日記によると、
「私は 5,000ドルの年俸でありながら、私の貯蓄として年額約 6,000ドルをニューヨークに送金することができる」とハリスが言っております。

年俸の1.2倍を貯蓄できたのです。このように莫大な貯蓄ができるには小判を上海か香港で売却するしか手段がないと思われます。
ハリスがどの位の量の小判を持ちだしたのかを見積もってみます。
当時は、1ドルが一分銀3枚のレートでした。1分は1/4両、3分(一分銀3枚)は 3/4両から、4,500枚の小判となります。
濡れ手に粟の見本です。ちなみに、幕府の勘定奉行の年収は、3,428両(Essays62)ですので、金銀比価の調整不十分でハリスさんは、勘定奉行の年収を軽く稼いだことになります。

「参考資料」:幕末維新の民衆世界、開国の先覚者中居屋重兵衛、江戸幕府・破産への道、大君の通貨、維新前夜の江戸庶民等

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1996.11.08/2005.01.16/2007.05.09/2009.3.11