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桜田門外において、大老井伊直弼
が薩摩の有村治佐衛門により、その首級をあげられたのは万延元年(安政七年)の上巳(じょうし)の節句三月三日でした。
当日は朝から雪が降っておりました。ある程度雪が積もったほうが歴史的場面に似合うような気もしますが、どの程度の雪だったのでしょう。
大蘇芳年と言う方が描かれた「桜田門外襲撃の図」を見ますと結構大雪のように見えます。
この図によりますと大人のくるぶしが見えるか見えないかの積雪量です。8−9cmほどでしょうか。
この積雪量は現在の東京では大雪と言えるでしょうが、本当にこんなに雪が積もったのでしょうか。
万延元年三月三日は旧暦でして、今の暦では三月二十四日になります。桜の開花が話題になる時期なのです。手元の資料の中から雪に関する記述を調べてみました。
襲撃に参加した4人の水戸浪士、大関和七郎、増子金八郎、杉山弥一郎、広木松之介が、社務所で雪見の許可をもらったようです。
どこの社務所で、何のために許可をもらうのか分かりませんが、ある程度雪が積もる予想であったことが分かりますし、また、襲撃の挙に参加し、成果を見届ける役であった岡部三十郎が、「願うより嬉しと思う今朝の雪」と詠んでおります。
注目の積雪量ですが.......
襲撃者の一人で生き残った海後嵯磯之助(明治36年没)はこう言っております。
「あの日は明け方から雪になったものの、何せ昔の三月、新暦の四月のことで一時は大きなぼたん雪がさかんに降って真っ白になったが、寒くもなし、斬り合いの時刻になると雨まじりの小雪になり、やがて薄日がさして雪も早く消えました」。
また、水戸の豪商大高氏の日記では、「八ツ(午後2時)、雪やむ」とあるようです。
外桜田門の前の杵築藩邸の者は、「小雪がちらつき、道はうっすらと雪化粧」と伝えております。
それから、襲撃の模様を目撃した石沢源四郎少年の語ったのがありまして、これには、
「(有村次佐衛門が)胴を取って腹を切ろうと思ったが、それ(皮の稽古胴)が邪魔になるからもがいた・・・・周りに立っている者らしきに拝んで、首をやってくれというふうにしたが、誰もやる者がない。どうしても死ぬことができないので、前にある雪を取って口に入れた」。
もう一つ、土井大炊頭家来遠山十兵衛の届出は、
「八代洲河岸大炊頭一手持辻番所今朝五つごろ異形の体で抜身十人ほど通ったので、さしとめようつ辻番人共が出かける内に足早に竜ノ口方面へ行き走り、雪中故行方は見失った」。
最後に外国人の記録、エジンバラ・レビュー紙の記者によると、
朝の10時頃であった。みぞれ混じりの嵐が、道や空地を一面に吹きまくっていた。行列はゆっくり丘の下の道に向きを変えた。道は高台の所でさえもぬかるんでいた。
従者は降りしきるみぞれに視界をさえぎられて、・・・・ 首級をあげた、ただ一人の薩摩武士有村次佐衛門が口に含んだ雪は、
井伊家の家臣小河原秀之丞から受けた後頭部四寸の傷から出る鮮血と土が混じった、
いまにとけそうな、
でもこの23才の薩摩武士には日下部未亡人の娘松子の白無垢だったかもしれません。
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2004/03/13 |
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酒豪であった土佐の山内容堂が
井伊直弼襲撃の報を聞いて
亢龍元(*1)を喪ふ
桜花門
敗麟は散り飛雪となりて
翻ふ
腥血河の如く雪亦赤し
乃祖の赤装勇存する無し
汝地獄に到りて
成仏するや否や
万項の淡海(*2)
犬豚に付せん
*1:首
*2:琵琶湖転じて彦根藩
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