No.18 彰義隊(尊王恭順有志会)の発足
..最後の将軍徳川慶喜が上野東叡山寛永寺に謹慎を表明した日(慶応4年2月11日)、
「橋府随従之有志」の名前で 檄文
が配られました。
この檄文は一橋家累代の家臣本多敏三郎と幕府陸軍調役伴門五郎により書かれたようです。
檄文
わが公(徳川慶喜)は尊王のため誠忠を尽くし、二百年来の御祖業を一朝にして朝廷へお帰し遊ばされた。公明至誠のご英断は天人の知るところである。
しかるに奸徒どもの詐謀により、今日の危窮に至ったことは切歯に堪えない。君辱しめられれば臣死するのとき、・・・多年の鴻恩に報いるのはこの時である。百事ご相談申し上げたいので、明十二日昼九ツ時、雑司ヶ谷茗荷屋へご出合いありたく、・・
そして十二日当日、集合したのは 7名程と言われます。何枚の檄文が配られたのでしょうか、そして何処へ配られたのでしょうか。
複写機のない時代ですし、緊急の配布ですから印刷は無理なような気がします、手書きでしょうか。そして配布先一覧表も準備していたかどうか不明です。大量に配布できる状況ではないと思われますから配布数は少ないでしょう。集合場所である雑司ヶ谷鬼母子神境内にある茗荷屋と言う
酒楼の収容人数も限りがありそうですから、本多敏三郎・伴門五郎らはあらかじめ見当を付け、誰に配布するか色々考えを巡らしたに違いありません。
檄文を受け取った方も、主人が謹慎しましたので参加するかどうか非常に迷ったことでしょう。檄文にある「君辱しめられれば臣死する」の言葉は参加するのに相当な覚悟がいる、と感じたに違いありません。一歩踏みとどまらざるを得ないのが一般的かもしれません。
茗荷屋での会合の内容はどんなものだったのでしょうか。
「奸徒どもの詐謀」に対する憤慨が中心であったことは予想されますが、まず組織として成立させるための方策が相談されたと思われます。早い話が代表者を誰にするのかという問題でしょう。集会を終えた伴門五郎・竹沢市五郎・須永於莵之輔らが小石川伝通院別院処靜院に渋沢成一郎を招き説得することとなりますが、この時渋沢は引き受けてはいないようです。鳥羽伏見の戦で敗北した敗残兵の始末をして帰ったばかりですし、徳川慶喜の謹慎の力学的背景を身を持って感じておりますから、伴門五郎ら江戸の憤慨とは違っているはずです。
渋沢成一郎が「橋府随従之有志」の代表者になる決心をしたのは尾高藍香(*1)の説得によるものと思われます。
この尾高藍香は「西から下って来る官軍の総督に面会し、徳川慶喜公の御素志を表明すべき」と、渋沢成一郎を説得しているようです。具体的には徳川慶喜の謹慎を解いてもらうために活動するということになるのでしょう。
そして、第2回目の会合が四谷鮫ケ橋(鮫河橋入横町)の円応寺(住職は滝川播磨守、池田大隅守らと交際のある虚堂)で開かれ(渋沢成一郎は参加せず)「尊王恭順有志会」と称することになり、ついで第3回の会合が同じ円応寺で開かれました(慶応4年2月21日)。
この第3回の会合で初めて血誓帳を作り、渋沢成一郎が第一番に署名血判したのです。
しかし、渋沢成一郎は直接円応寺へはいかず近くの料亭で様子を見ていたとの話もありますから、渋沢成一郎には、まだ何かわだかまりがあったと思われます。
尊王恭順有志会を彰義隊と改称したのは、京都東本願寺の江戸別院浅草東本願寺別院にて100(130)名ほどの尊王恭順有志会(彰義隊)の結成式(慶応4年2月23日)と思われます。
ここで渋沢成一郎が頭取、天野八郎が副頭取に就任し、血誓帖(同盟哀訴申合書)を作り60余名が署名血判しました。
血誓帖(尾高藍香の起草と言われる)
「方今、社稷危急存亡の秋、臣子尽忠報国は士道の常にて諸士の所仰なり。しかれども、昇平三百年の久しき、士気相緩み候より、尽忠報国は人口に膾灸する而巳、互いに未見其実際。故に今日の形勢に至り候も、敢えて人を恨むも無詮、誰か是を不恥哉。しかれば則言行不相反、愈抛身命君家の御窘辱を一洗し、反逆薩賊を戮滅し、上朝廷を尊奉し、下万民を安堵せしめ、遥かに神祖の聖霊に可奉報。
有志の士は断然一死を神明に誓い、姓名をこの帖に記載を仰ぐ。我ら雖不敏聊馳駆の労を以て諸君の孤忠を世に示さんもの也」。
尽忠報国の実践(君家の辱を一洗)と反逆薩賊の戮滅が目的です(薩摩が狙い討ちされており長州は見えません、当時江戸では薩摩が目の敵だったようです)。
彰義隊の結成式からほぼ2ヶ月後、頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎との亀裂が大きく、渋沢成一郎は彰義隊を離れ四谷新宿より二里余りにある堀の内の信楽と称する茶漬茶屋に同志(後の振武軍)を集めるのです。
なぜ、渋沢成一郎は彰義隊を離れたのでしょうか、直接のきっかけは、渋沢成一郎が江戸退去説を持ち出したことと、江戸の商人たちに御用金を課したことにあったと言われます。二人の考え方はどのように違っていたのでしょうか。
尾高藍香(*1)
武州榛沢郡手計村の生まれ(1830.9.13)でこの時
37才、かの渋沢栄一の妻は尾高藍香の妹千代で、従兄妹同士の夫婦。
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