No.17 彰義隊/振武軍の発足前夜、渋沢成一郎の話し

....埼玉県飯能市の能仁寺は徳川氏ゆかりです。表から入りますと、石灯篭が並んでおります(写真参照)。この灯篭で連想するのが二つあります。

一つは自動販売機が見える靖国神社のそれと、もう一つは下北半島の恐山・宇曾利山湖が見え、どこかへ遠く続きそうな石灯篭です。能仁寺の石灯篭は恐山を思い出させます。

この能仁寺を焼いたのが慶応4年戊辰5月22日の飯能戦争です。

この戦争は
振武軍がその中心ですが、まずは、この振武軍の責任者渋沢成一郎(喜作、若干29才)の話しから始めなければならないでしょう。

鳥羽伏見の戦いで幕府軍は予想もしない惨敗をくらいましたが、その幕軍兵士をどのように帰国させるかを考えなければなりません、その数1万余なのです。

評議の結果、一旦紀州へ送ることになりましたが、紀州と交渉をするお役目に奥右筆御政事内務係渋沢成一郎が命ぜられたのです。加えて、三河の吉田藩からは直参を笠にきた振舞いで手を焼いているとの訴えもあり、この取締も命ぜられました。敗残兵を指揮するというのはどのようなものなのでしょうか。

一橋家の家臣であった渋沢成一郎への風当たりは、破れてすぐ江戸へ帰った将軍慶喜への反感があったことを考えると、強いものがあったのではと予想します。幕府の不甲斐なさを身を持って感じ、そして一橋家の家臣であるということが忸怩たるものがあったかもしれません。

敗戦処理を終えて江戸へ戻ってまもなく、丁度最後の将軍徳川慶喜が謝罪恭順のため寛永寺に入ったその日(慶応4年2月12日)、渋沢成一郎は小石川伝通院の別院処靜院に招かれます。招いたのは雑司が谷鬼子母神の茗荷屋において、積年の徳川慶喜に対する恩にむくい、その屈辱をそそぐべきであるとの主旨で集まった伴門五郎らの有志、後の彰義隊です。

この会合は、参会するもの四、五人で、伝通院から早々に立ち退きの申し入れがあったようですから顔合わせと主旨の説明、そして渋沢成一郎が有志の指導者になって欲しいと依頼されたことくらいと思われます。この時、渋沢は回答を保留しております。

主君でもあり、幕府の最高責任者でもある徳川慶喜が寛永寺に謝罪恭順している状況、そして鳥羽伏見で幕府軍の実態を見た渋沢成一郎は「武力」の行使は意味がないと考えていたに違いないと思われます。これは鳥羽伏見から遠い江戸での認識と違うのは当然でしょうが、最終的には戦闘に突入します。

小石川伝通院での会合の翌日、尾高藍香らが二、三人の同志を伴い再びを訪問し、渋沢を説得します。この説得により渋沢成一郎は伴門五郎らの有志に加わることになります。

これにより彰義隊そして振武軍の母体が出来上がったのです。これから飯能戦争までのいきさつは次の機会とします。

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