No.15 抜荷(密貿易)の海、日本海


天保6年(1835)11月、
薩摩の抜荷(密貿易)船が新潟沖で 難破し、新潟湊から少し離れた村松浜にその残骸が打ち上げられました。
船板が薩摩船に特有のものであったこと、そして箱材には清国商人の荷印が認められていたこと で、幕府の調査が入りました。
この時期、新潟は天領のはずですから代官を経由して幕府へ報告 があったのでしょう。


この件についてのお庭番(村垣淡路守 ?)の調査報告書があります。

「唐物の儀、長崎表より渡り候筈のところ、近年、異国人、海上において日本の船と乗り換え候由、多分は
薩州商人どもの働きのおもむきにて、近年、仲買いと申すものもっぱらこれあり。これは薬種そのほか積み込み、いずれの湊へも廻船乗りまいり、米金と交易つかまつり候おもむき相聞こえ、九州筋にては長州の赤間関へ着船、それより北国筋 へ目差し乗り下り候ものは、石州浜田、雲州辺の湊々にて少々抜け売りいたし、能登輪島へ入津、同所にて薬品そのほか琉球朱もっぱらこれあり」。幕末遠国奉行の日記

 天保10年3月7日に関係者の処罰が申渡されましたが、この評定のとき、本来出席すべき寺社奉行越後長岡藩主牧野備前守忠雅は欠席しました。抜荷の黙認、運上金の受取があったと言われます。お庭番の報告によりますと、新潟の他に、
石州浜田でも抜荷がありました。

新潟の抜荷が検挙される3年前、天保7年に石州浜田の密貿易商人会津屋八右衛門(廻船問屋、浜田藩御用商人)が処罰されております。この事件は
「竹島事件」と呼ばれます。 会津屋八右衛門のほか、浜田藩勘定方橋本三兵衛も加担しておりましたが、彼等は妻子と離別して抜荷を画策したようです。当時、各藩の財政はほとんど破産状態のようで、抜荷は非常に魅力的なものであったようです。
藩の財政改善のため貿易をしたくとも、それができないのです。抜荷とは
長崎会所経由以外の貿易ですから海外貿易は幕府独占体制であったのです。

事件は
間宮林蔵が糸口をつかみ、時の大坂町奉行矢部駿河守に報告し検挙されたとありますが、浜田藩内の事件であり、浜田藩主松平周防守康任は当時老中でもあり、職務権限上なんで大坂町奉行が出てくるのか不思議な面がありますが、間宮林蔵が幕府の隠密(?)であったとすれば大坂町奉行所の出番になるのかもしれません。「竹島事件」については 【間宮林蔵の世界へようこそ】に資料があります。
この竹島事件でも藩主が黙認していたようです。発覚してから浜田藩主松平周防守康任は老中を 解任されます。この解任は出石藩のお家騒動への関与の方が直接の原因かもしれません。どちらにしても松平周防守康任は永蟄居、藩は奥州棚倉へ国替えとなりました。

さて、抜荷(密貿易)ですから、その対象になった品物は何でしょうか。そしてその貿易額、取引経路はどうなっているのでしょうか。
どうも
薩摩の動きを調べることが必要なようです。 薩摩は調所笑左衛門広郷以来、財政再建には手段を選ばないようです。というより幕府優先の規制にたいする抵抗かもしれませんが..... 「昆布の道(大石圭一著)」と言う本がありますが、著者は 「昆布が明治維新の原動力になった」との説を展開しております。薩摩の砂糖を大坂や下関で昆布に替え、その昆布を琉球国を通じて清国に運ぶ抜荷ルートがあったようです。


もう一つ大々的な抜荷(密貿易)がありました。
日本海と瀬戸内海の接点である下関がその場所です。この密貿易は長州と英国・米国の取引で、抜荷としては軍艦や武器でした。

元治元年8月の長州敗北の下関戦争が終わってすぐ、この密貿易が始まっているのです。英国商人グラバー、米国商人ドレイクを相手に長州藩が武器の密輸を行いました。

幕府は長州藩の密貿易を小倉藩による報告で把握していましたが、これを押さえることはできなかったのです。
幕府が統制しようとも、グラバー達外国商人の抜け道アドバイス(長州藩との交易禁止は薩摩名義で逃れる)に乗って、長州藩は日本有数の軍事力を保有するに至ったのです。

攘夷を標榜していた長州藩は、開国に転換して強い軍事大藩になっているのです。


参考資料:幕末遠国奉行の日記(小松重男)、昆布の道(大石圭一)、江戸豪商100話、幕末長州藩の攘夷戦争(古川薫)
/2008.2.26

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