No.14 榎本艦隊が館山へ脱走......そしてお咎めなし。

......江戸城開城の当日(慶応4年戊辰4月11日) 、官軍の海軍先鋒が幕府艦の引渡しを受ける予定でしたが強風のため、翌日に延期しました。 ところが幕府海軍副総裁榎本武揚らが、品川碇泊の軍艦7隻(8隻?) を率いて房総半島南端の館山湾へ脱走したのです。 徳川の海軍総督矢田堀鴻や勝海舟が知らなかったと言われます。

榎本武揚は官軍の海軍先鋒大原俊実に退去の理由を述べた書状を送ったようです。 なぜ、館山湾なのでしょうか、
日本ではめずらしい大艦隊が碇泊するのです。まして風が強い日ですから危機意識が働く でしょうから、館山湾が脱走先として適当であるという知識を誰かが持っていたと思われます。あるいは海図が手元にありlそれを参照して作戦を練ったのでしょうか。

左のイラストは幕府軍艦の長さ比較です。

ところで、勝海舟らの説得で脱走艦隊は4月17日品川に戻ってきますが、 不思議なことに、幕艦の引渡しを要求した側の官軍は、東海道先鋒総督府の 達しとして、「主家を思う至情に感心し・・」ということで、特に強い御咎 めはないのです、加えて軍艦4隻を榎本武揚に与えたのです。まして与えられた 榎本の軍艦4隻は最新鋭艦の開陽丸を含む実戦に耐える艦船なのです。 官軍側は何を考えているのでしょう。

下世話では泥棒に追い銭と言うのではないでしょうか。 さらに、官軍が引き取った軍艦で徳川脱走兵を攻撃しないという証書が幕府 側に届けられているのです。不思議です。
これらの官軍側当事者は東海道先鋒総督の薩摩藩参謀海江田信義 といわれます。 この海江田信義という人物に徳川艦隊を優遇する、野放しにする何か理由があるのでしょうか。

そして、榎本艦隊が館山湾に碇泊しているときのことですが、 東海道先鋒総督橋本実梁、柳原副総督が久留米藩邸へ寄ったとき、幕府軍艦の 脱走について、佐賀藩の海軍奉行島義勇が追及されています。
また、島義勇が総督橋本実梁を訪問した時、長時間待たされ、あげくのはて参謀補としか会え なかったようです。

これらを見ますと、東海道先鋒総督府と新政府海軍とは良い関係がないように見えます。

佐賀藩の海軍奉行島義勇は、この年3月に官軍の海軍編成 を命じられているのですが、この月末彼は勝海舟に面会し、勝を新政府側に帰順させようとして います。

海舟日誌には「海軍先鋒大原俊実、佐賀藩士島団右衛門義勇をして旧幕府陸軍 総裁勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」とありますので、 徳川海軍をどうにかせよと命じられていたのが佐賀藩士島団右衛門義勇のようです。
この時期の新政府海軍についての佐賀藩と新政府との関係を調べたくなる状況が あるようです。考え過ぎでしょうか。

参考資料:イラストで見る箱館戦争(新人物往来社)等

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