No.13 和算と第1次長崎海軍伝習所
西洋の数学と和算が教室でまともに衝突したのが 長崎海軍伝習所ではないでしょうか。
その衝突の中、お互いに通じるところがあるはずです。まだ、詳しく調査はしていませんが
数学を代数と幾何に分けた場合、幾何学で通じ合ったのではと予想
します。
なぜこの話しを出すかと言いますと、我国は幾何の方が得意ではと個人的に感じているからで、
確証はございません。
代数はいかに抽象化するかと言う世界ですが、幾何は眼に見える世界を確認する世界です。
幾何学の歴史は古代エジプトに溯り、あのピラミッドの構築がそのようです。そして、
我々になじみの深いピタゴラスの定理も幾何学となります。代数はその後に出てきたのでしょう。
西洋の代数は記号を使いはじめてから発展したのでしょうし、記号化しないと代数になりません。
我日本は記号化という概念がなかったのでは?
日本の数学書は「塵劫記」が代表選手です。
この代表選手にも代数的なものと幾何的なものがあると思います。
塵劫記の「第25 枡の法付昔枡の法事」「第26
よろずに枡目積る事」は幾何の部類で、 「第36
鼠算の事」「第37
日に日に一倍の事」は代数に近いのではと思いますが記号化
されていません。
西洋の数学と和算の違いは何かと素人ながら考えますと、
数学は一般化して万人に分からせようする工夫があります、
しかし、和算は「算額」という伝承で後に課題を残し
一部の人の世界になっています。
この「算額」により和算は発展しますので、その
功績は大きなものがあります。この伝承の方法は 日本独特のもののようです。......遺題継承(世の数学者に出した宿題)
「和算の館」のイメージをクリックすると算額についての専門ページにつながります。
そして、気になることがあります。即ち、「道(どう)」にしてしまい、
他人が簡単に入り込めないようにしているのではないでしょうか。
華道、茶道がその典型に見えます。花を飾るのに「道」があるのです。
そして憩いのお茶を飲むにも「道」があるのです。
ここが西洋と東洋の違いのように感じております。
ご批判を頂きたいところです。
......前置きが長くなりましたので、本来の幕末に戻します。 長崎海軍伝習所(第1期)での様子を見ますと、
はるばる派遣されたオランダ海尉艦長ペルス・ライケンが自ら高等代数学を教えております。
そして教科書はオランダ海軍のピラールの航海術書です。
このような書物にある数学は、その中身を知るため必要なものを載せているのが普通で、
この数学としては、当然航海術に必要な基礎算術、代数、幾何、そして三角関数があります。
これらをマスターした人にそろばんの得意な小野友五郎がおりまして、
彼は和算の素養があったのです。 「小野、福岡の二人は、年もとっていたが、和算の素養があったので、
・・ただちにそれを会得して、容易に解決するのが常であった」。
中牟田倉之助の回想(子爵中牟田倉之助伝)
和算のどこが役に立ったのかは、これからの調査課題です。 小野友五郎は特別に微積分の教授を受けておりますが、
マスターしたかどうかは確認できません。![]()
微分はものの動きを表すもので、ニュートンの独壇場でして、
当時の日本人にはなじまないと感じておりますが、積分は関孝和の流派が円理で近いところにいって
おります。しかし、種々なものに適用できる一般性を持つには到達していないように見えます。
この長崎海軍伝習所、第1次伝習は、井伊幕閣の意向で安政四年に
解散しますが、勝麟太郎ら四名が補習のため残るのですが勝麟太郎の居残りは気になります。
ちなみに第1次伝習の生徒は、小野友五郎、勝麟太郎の他、矢田堀鴻(景蔵)、佐々倉桐太郎、
望月大象、鈴藤勇次郎、高柳兵助、福岡金吾、土屋忠次郎、石井修三、春山弁蔵、岩田平作、
浜口興右衛門、山本金次郎、尾形作右衛門、関川伴次郎、村田小一郎、鈴木儀右衛門、小川喜太郎、
近藤熊吉らの人材がおりました。
参考資料:長崎海軍伝習所の日々(カッテンディーケ)、塵劫記(吉田光由)、
咸臨丸航海長小野友五郎の生涯(藤井哲博)
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