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No.12 旧幕府陸軍は官軍を迎え撃つのではなく北へ

......江戸城が無血開城した、その日(慶応4年戊辰4月11日) 歩兵奉行大鳥圭介は夜遅く、 約束通り元佐倉藩士木村隆吉と、従僕虎吉を従え駿河台を立ち向島の小倉某の所へ向かいました。行きましたところ兵が集まっている様子がなく、近くの自身番を覗くと歩兵が寝ております。 なんと彼らは大鳥圭介を迎えに来てはからずも眠ってしまったようです。

居眠り歩兵に案内されて差図役、同下役及び歩兵450人が待つ報恩寺へ入りました。
左の写真は現在台東区東上野6丁目にある報恩寺です。topic.gif (1036 バイト)

ここで大鳥圭介は明日早朝、鴻の台への出発を指示したようです。 葛西の渡しを越え市川の渡船場に来たとき、迎えが来ておりました。 大鳥圭介の行く先々には迎えが出ております。 大鳥圭介が自ら手配したのか、それとも配下の者が段取り したのか、多分後者ではないかと思います。 そして、案内された市川駅の小さな寺院での軍議に参加するのです。

この軍議は旧幕府陸軍の去就を決めるもののようでした。鳩首、軍議に参加していた者は、 幕府、会津、桑名が中心です。あの新選組の土方歳三の顔もありました。 軍議の結果は宇都宮への進軍になり、 当初鴻の台に集結し様子を見る予定であった 大鳥圭介も宇都宮進軍に加わるのです。
宇都宮への進軍の目的地は日光東照宮なのでしょうか。それとも会津藩なのでしょうか。
市川駅軍議は誰が主導権を握り、どのような情勢分析があったのでしょうか知りたい ところです。すでに将軍慶喜は恭順の姿勢が明確であり、 旧幕府陸軍のよるべは故人徳川家康公のみになったように見えます。

錦旗を掲げる官軍との戦闘は、その名分、軍事的インフラにおいて遥かに劣っていたとの 認識が幕府側に有ったのでしょう。

この年3月、大鳥圭介は実弟に宛て、 「小子義は近来追々蒙非常之抜擢、昨冬巳来三度転役歩兵頭並より 歩兵頭に相成り、歩兵頭より歩兵奉行に此間被仰付、誠に難有義故一命を以て幕府へ忠節 を尽し候覚悟に御座候」と書き送っています。

心情的には分かりますが、北へ北へ、忠節を尽くそうとする心根が、北の人たちを戦場に追いやったことにはならないのでしょうか。 ....とすれば、忠節とは悲しい性(さが)のように思えます。topic.gif (1036 バイト)

旧幕府への忠節は建前に代わり、根は薩摩等への反抗があったかも知れません。

ほどなく彰義隊の戦が始まりましたが、彰義隊敗走後に英国公使パークスが英国のハモンド外務次官に送った報告には
「若い当主(徳川家田安亀之助)は70万石、約200万ポンド相当の収入を与えられるという。これが本当ならば内戦は、つづめて言えば
薩摩と会津の果たし合いという性格を帯びてくるだろう。」

忠節を尽くすべき徳川家は後継者が決まり存続することになりました。徳川家が残ることになった時点で、彼等は誰のために忠節を尽くすのか、パークスの指摘は的を得ているのかも知れません。

参考資料:幕末実戦史(大鳥圭介)..新人物往来社 等
2005.1.11/

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