No.11 水野出羽守(最後の側用人)がまた引越し。


......[essays No.1]水野出羽守忠寛 が桜田門外から和田倉門外 へ引っ越ししたとお話しましたが、


万延2年の江戸図ではなんと芝増上寺の西側に「水野出羽」と明記されております。
家紋が同じようですから、和田倉門からまた引越ししたのでしょう。安政6年(1859)に和田 倉門外へ、そしてほぼ2年後の万延2年(1861)に増上寺の西側へ移りました。

万延元年の地図では、まだ和田倉門外に居りますから、引越しは万延2年(文久元年) でしょう。
水野出羽守という方は引越しがお好きなのでしょうか、意に反しての引っ越しでしょうか、 それとも官舎(?)を渡り歩いているのでしょうか。
そもそも水野出羽守という方のお役目は何なのでしょうか、 沼津藩主である水野出羽守忠寛が安政6年3月9日に奏者番より 側用人になっており、側用人はこの人でお終いですから最後の側用 人になります。(藩史総覧、新人物往来社)

さて、この水野出羽守忠寛が側用人在職中に関係した大きな事件に 「安政の大獄」があります。 この大獄で水戸の徳川斉昭も処罰を受けることになり、さて、 誰が上意(水戸において永蟄居)を伝えたかと言う話です。

安政6年8月27日、まず水戸藩の重臣藩附家老中山備前守信宝、家老宇都宮弥三郎、同白井 織部、同中山与三左衛門らが江戸城へ呼び出されました。通されたのは芙蓉の間という寺社奉 行・奏者番・大目付・町奉行・勘定奉行らの詰所です。水戸の重臣達は上座に向かい幕府首脳 を待っていたのでしょうか。大老井伊直弼、老中松平和泉守乗全、そして 和田倉門外にお住まいの側用人水野出羽守忠寛などが列座します。 そして、水戸の小石川邸に伊予西条藩主松平頼学、上野矢田藩主松平信和の2人を上使として 派遣することを申し渡したのです。頼学は病気を理由に辞したので、尾州藩附家老成瀬隼人正 正肥がこれに代わったようです。
上使松平信和らと水戸藩邸のやりとりは色々ありましたが、結局は「上意」ですから飲まざる を得ない状況でした。


すなわち 側用人水野出羽守忠寛は安政の大獄の主宰者側なのです。 和田倉門外にお住まいの側用人水野出羽守忠寛のお話ですので 時を進めます。
あの桜田門外の変から2年後、責罰辞令なるものが出ており ます。これは井伊直弼を初め、井伊直弼の政事を助けた人たちが処罰されたものです。 この中に水野出羽守(家紋は左図)の名があります。 その罪状は、「養父左京太夫井伊掃部頭へ致阿諛 御役柄不似合之事に 候依之指扣」と言うものです。
これを見ますと責罰は養子の藩主水野出羽守忠誠のようですから、井伊直弼が死亡してから1年 以内に忠寛は家督を養子の忠誠に譲り、上屋敷も和田倉門外から増上寺の西側へ移ったと考える のが妥当と思われます。 権勢を失ったことにより、その住まいも江戸城近傍から外れざるを得なくなったと見るのが普通 でしょう。

そして、江戸城近傍には時の権力者が住む構造になっていることが推察できます。

参考資料:江戸切絵で見る幕末人物事件散歩(人文社)、安政紀事(人物往来社)  

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97/03/28, 04/05/05