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No.1 上屋敷の交換(水野出羽守忠寛と久世大和守広周)
江戸城の開城の1週間程前の慶応4年4月4日に、徳川家の処分を伝える勅使が、今、桜田通りと呼ばれる虎ノ門から桜田門の道を 江戸城に向かいました。
現在、この桜田通りは霞ヶ関の官庁街になっております。幕末当時は大名の大きなお屋敷がありまして、切絵図と現在の地図を比較
しますと、乱暴な推測ですが、それぞれ外務省が松平美濃守、自治省が松平安芸守、法務省が上杉弾正の屋敷付近となっております。
嘉永3年(1850)の絵図と安政6年(1859)の絵図を比較しますと、桜田門外町内にお住まいの方々は同じようですが、1軒だけ違っております。
虎ノ門から桜田門への道の右側、外桜田の坂に面した屋敷が水野出羽守から久世大和守に変わっております。
水野出羽守はどこへ引っ越したのでしょうか。
....安政6年の絵図で引っ越し先を探してみますと、ありました。
水野出羽守のお住まいは和田倉門外に移っておりました。現在の東京駅丸の内口の前あたりでしょうか。
ところがです。
同年の別な安政6年の絵図では、水野出羽守の引っ越し先が久世大和守になっているのです。....と言うことは、
安政六年頃屋敷を交換したことになります。水野出羽守が桜田門外から和田倉門外へ、
久世大和守が和田倉門外から桜田門外へ引っ越したようです。
次の絵図を見て下さい。
左の絵図は安政6年(1859)の江戸城近辺で絵図の中の
地点 P1(和田倉門外) P2(桜田門外)が、 屋敷交換の場所です。
嘉永3年(1850)の時点では、P2が水野出羽守になっております。
左の図で白い線があるところが、当時「大名小路」と呼ばれた路です。
(現在の東京駅付近と思われます)
次に別な安政6年頃の2つの違う絵図を紹介します。
発行月日は不明ですが、下の4枚の拡大絵図が、安政六巳年新刻
(江戸日本橋通壱町目、須原屋茂兵衛蔵板)と安政六巳年毎月改(江戸日本橋南壱丁目、須原屋茂兵衛蔵版)による絵図です。
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.P2(桜田門外)
安政六巳年新刻
安政六巳年毎月改
P1(和田倉門外)
安政六巳年新刻
安政六巳年毎月改
それぞれの絵図が東西南北バラバラですので、見ずらいのですが、お隣さんを見ていただくと比較しやすいと思います。
安政六年の地図で住まいが違うのですからこの年に上屋敷を交換したのでしょう。
何で引っ越したのでしょうか、「通勤」に便利なのはどうも桜田門に近い方と思いますが、理由はなんでしょうか。
場所はどちらも江戸城に近いですから、左遷ではなさそうです。広さもさほど差がないようです。
上意なのか、それとも個人的なものなのでしょうか。日本橋の「繁華街」に近いのは和田倉門ではないかと思います。
他人事ながらチョット気になります。なお、水野出羽守忠寛はさらに引っ越ししております。その話しは
Essays11で紹介しています。
気になりましたので、少し追求してみました。
水野出羽守忠寛と久世大和守広周が屋敷を交換した、この和田倉門外の屋敷地をさらに追求すると、.......
天保14年(1843)の住人は松平和泉守
安政3年(1856)の住人は久世大和守広周(老中)
安政6年(1859)の住人は久世大和守広周、水野出羽守忠寛(最後の側用人)
慶応元年(1865)の住人は松平伯耆守(老中本荘宗秀)............となっております。
どうも、この屋敷地は老中などへ幕府から支給されている「拝領屋敷地」ではないでしょうか。
柴田宵曲編の「幕末の武家」、青蛙選書の中で、内藤鳴雪は「上屋敷、中屋敷は幕府より賜り、下屋敷が大名の所有・・・」と言っております。幕府より賜るという意味は何でしょうか。
大名のお屋敷は幕府の管轄であり諸大名は借りているのでしょうか、家賃を払っていたのでしょうか。それともお安く下げ渡したのでしょうか。幕府の政策としてどうしていたのか気になります。
小川恭一さんの「江戸の旗本事典」に次のような解説があります。
拝領屋敷とは幕府や主君から土地の占有使用権を与えられ、建物は自費負担になっているのです。
所有権ですから、幕臣間で交換も行われ、屋敷代の差額はお金で決済されていたのです。土地の使用権ですから、幕府が土地返納を命ずることもあります。すなわち拝領と言っても土地・建物を貰うのではありません。土地は幕府の所有なのです。
安政3年に久世大和守広周(老中)が住んでいたという情報は、「諸向地面取調書」によるのですが、これによると、この屋敷地の広さはなんと、7,058坪、現在の単位で言いますと、1坪を
3.3平方メートルとすると 23,291平方メートル、正方形にすると一辺が152mという広大な屋敷地です。東京ドームが入りそうな面積で、あまりにも大きすぎて首をかしげたくなりますが、事実でしょう。
また、江戸の町の道路の巾についての情報が、「シュリーマン(*1)」の旅行記に載っておりました。
江戸の道は、パリの大通りのように砂利で舗装されている。
もっとも狭い道で巾 7mはある。商業地域の平均的な道幅は
14mくらいである。一方大名すなわち領主たちの屋敷町の道幅は
20−40mもある。
この数値をみますと、大名のお屋敷周辺はごみごみしていないようです。
シュリーマン(*1):トロイア遺跡の発掘という一大事業を成し遂げたドイツ生まれの人で、発掘の6年前、幕末の日本に三ヶ月ほど滞在。
シュリーマンは慶応元年5月11日(1865.06.04sun)に横浜に上陸しております。
2002年3月、
ギリシャのアテネを訪れたとき、国立図書館とシンタグマ広場を結ぶパネピスティミウ通りに、たまたま「シュリーマンの家」を見つけました。左の写真が「シュリーマンの家」です。
資料館になっているようでしたが、中には入ることができないのであきらめました。
参考資料:歴史読本特別号「大江戸おもしろ役人役職読本」、シュリーマン旅行記
清国・日本、幕末の武家等
1996.10.25/1999.01.02/2002.05.19/2004.02.14/2007.09.07
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