Topic5 永持亨次郎 穀明(Nagamochi Koujirou Yoshiakira)
永持亨次郎穀明の足跡をたどります。永持亨次郎の曾孫さんからの情報をまじえています。
| 嘉永7年10月25日 |
ロシアとの交渉のため中村為弥、森山栄之助、永持亨次郎(目付松本十郎兵衛の随員)がディアナ号におもむき、会談のため上陸されたいと申し入れるが、プチャーチンは承認しなかった。 理由は「長崎では日本側の希望をいれて上陸して交渉したので、今回はロシア軍艦上で交渉する順番である」との事であった。 そのため、10月26日再度中村為弥(時萬、勘定組頭、後石見守)に通詞森山栄之助、永持亨次郎(徒目付)を差し添えて交渉に当たらせたが、ロシア使節側は、今まで全て日本側の指図に従って[ロシア側希望交渉場所が箱館(日本側拒絶)・大坂(日本側拒絶)、下田に行くように日本側から言われたことなどを指す]きたが、今回の交渉の場については譲れないと主張して、下田に上陸して交渉することを拒否した。 |
| 安政元年12月16日 | 日露会談で中村為弥、青山惣右衛門、永持亨次郎、森山栄之助とポシェートとの間で事務折衝が細部に渡り行われる。 |
| 安政元年12月18日 | 中村為弥、青山弥惣右衛門、永持亨次郎、森山栄之助等が地震による損傷の跡が生々しい下田玉泉寺でロシア側と条約の最終的な詰めを行い、樺太(サハリン)の帰属、原住民などの取扱などを除いて大筋で合意に達した。 |
| 安政2年5月3日 | 永持亨次郎が長崎在勤目付永井岩之丞の配下、勘定格徒目付として勤務。 |
| 安政2年7月29日 | 永持亨次郎が蒸気軍艦観光丸の運用などを目的とする長崎海軍伝習所・第一期生の艦長候補となる。艦長候補は他に勝麟太郎(勝海舟)、矢田堀景三がいた。 勘定格御徒目付 永持亨次郎(柴田日向守剛中の実弟)への命令書 長崎表え阿蘭陀より献貢の蒸気船運用、其の外伝習として、小十人贄(にへ)善右衛門組矢田堀景蔵、小普請組奥田主馬支配勝麟太郎差遣はされ候間、申し合わせ一同重立ち取扱ひ申す可く候。 尤も外役々職方の者共も差し遣はされ、外国人より伝授受け候事にて、容易ならざる御用筋にもこれ有り候間、銘々一時の功を争い、一己の名聞を相立て候様の儀これ有り候ては、以ての外の義につき、右様の義聊かもこれ無き様厚く申し合わせ、外役々申し達し、右の心得を以て、如何の義は勿論、不取締りにこれ無き様取計らふ可く候。尤も永井岩之丞(尚志)儀、諸事引続き指揮致し候事につき、万端差図に任せ相勤む可く候。 |
| 安政2年8月10日 | 幕府は長崎奉行に対し、幕府派遣の長崎海軍伝習所伝習生の履修について令し、造船術、運転、砲撃の履修は矢田堀景蔵、勝麟太郎、永持亨次郎となる。 |
| 安政3年6月7日 | 永持亨次郎が伝習御用の成果が認められ細工所頭格徒目付に昇格。 |
| 安政3年10月 |
永持亨次郎は第一次長崎海軍伝習の終了(安政4(1857)年2月末)をまたずに長崎奉行支配吟味役に転出。 勝海舟全集によれば、「永持氏は才幹抜群、且つ吏才に長ずるをもって、伝習生と解き当地奉行付組頭に栄転す。」とあります。 |
| 安政4年2月5日 | 永持亨次郎が長崎奉行支配吟味役になって初めて長崎出島を訪問し、オランダ商館長クルチウスから広東戦争の詳細を聞き、長崎奉行荒尾土佐守に報告。 |
| 安政4年7月 |
肥前国西彼杵郡飽之浦(現長崎市飽の浦町、現三菱重工業樺キ崎造船所敷地内)に製鉄所の建設を決定。 オランダから派遣された機関士官ハルデスが工事設計・技術指導・指揮をとり、永持亨次郎が会計その他の事務を担当。 |
| 安政4年8月18日 | 岩瀬忠震の香港行きが将軍、評定所一座に上申される。 評定所一座、海防掛勘定奉行は渡航反対、大小目付は賛成、林大学頭が岩瀬の渡航するまえに徒目付の平山謙二郎と永持亨次郎を根回しのため先に派遣すべきであると意見を述べる。 |
| 安政4年8月30日 | 永持亨次郎が徒目付平山敬忠らとロシア艦に赴き条約審議を開始する。 |
| 安政4年9月1日 | 永持亨次郎が勘定組頭連中とロシア使節プチャーチンを訪問し、条約審議を続行する。 |
| 安政4年9月7日 | 日露追加条約調印、長崎奉行支配吟味役永持亨次郎、徒目付平山謙次郎らが再三談判する。 |
| 安政4年10月 | 稲佐郡飽ノ島で長崎製鉄所が起工し、永持亨次郎が庶務会計を主宰した。 |
| 文久元年1月29日 | 永持亨次郎布衣を仰せ付けられる。 同一月日で亨次郎実兄柴田貞太郎(当時外国奉行支配組頭)も布衣を仰せ付けられる。 |
| 文久元年5月1日 | 長崎奉行支配組頭永持亨次郎らが対馬を占領しようとしているロシアのポサドニック艦長ビリレフと退去に関する交渉を行うため観光丸で対馬に到着。 |
| 文久元年5月3日 | 対馬へ出張の長崎奉行組頭永持亨次郎が対州芋崎碇泊のロシア船ビリレフと応接する。「幕末軍艦咸臨丸」 |
| 文久元年5月5日 | 対馬へ出張の長崎奉行組頭永持亨次郎が対州芋崎碇泊のロシア船ビリレフと応接する。「幕末軍艦咸臨丸」 |
| 文久元年5月7日 | 対馬へ出張の長崎奉行組頭永持亨次郎が対州芋崎碇泊のロシア、ポサドニック艦長ビリレフと応接する。「幕末軍艦咸臨丸」 |
| 文久2年5月4日 | 永持亨次郎は外国奉行支配組頭を仰せ付けられ、足掛け7年滞在した長崎の地を離れる。 |
| 文久2年12月7日 | 永持亨次郎は菊地隆吉(外国奉行、伊予守)、松平信敏(勘太郎、目付、後大隅守)等に随行して、大坂表その他海岸見分御用を仰せ付けられる。 |
| 文久3年6月8日 | 永持亨次郎が御徒頭過人兼外国御用出役頭取取締を仰せ付けられる。 |
| 元治元年5月10日 | 永持亨次郎が織田市蔵(信重、御徒頭過人)、関口飛騨守(左近将監、小十人頭過人)、小笠原友之丞(小十人頭過人)等と共に別手組200人及び附属役等合計212人を率いて、禁裏警守のため上洛する。 |
| 元治元年7月21日 | 永持亨次郎が目付介を仰せ付けられる。 |
| 元治元年10月1日 | 永持亨次郎が禁裏守衛総督兼攝海防禦指揮徳川慶喜公配下の目付介として勤務中38才で客死。 菩提寺:浄土宗智恩院派 妙泉寺 戒名:至心院殿廣譽正穀明義居士 |