Topic14 ケンペル鎖国論、「鎖国」を150年で伝える伝言ゲーム

鎖国と聞くと、従来から付き合いのあったオランダ、中国、朝鮮国の三国を忘れて
全部の国と付き合いを拒否したような印象です。どうしてでしょうか。

  まず、鎖国と言う言葉がどこから来たかを探ると、ドイツ出身のオランダ東インド会社の医師ケンペルに遡ります。
1690
年(5代将軍綱吉の御代です)に来日し、オランダ商館長の江戸参府に随行して日本見聞記である「日本誌」を残した人です。 この日本誌が、ほぼ80年後(1778年、10代将軍家治の御代です)に日本に広まったと言われております。フランスの啓蒙思想家モンテスキューやボルテールらが研究の対象とし、話題となっていたにも関わらず、一世紀に届かんとする月日を経て日本へ届いたのです。平成の現代から見ると信じられないスピードですが、情報の伝達は何を媒体としているのかを考えさせられます。

このケンペルの日本誌を翻訳した人が、志筑忠雄という人で、時代は11代家斉の御代、1801年、ケンペルが日本を訪問してから約110年後なのです。 ケンペルの「日本誌」の一部を志筑忠雄が「鎖国論」と名づけたのですが、なぜ鎖国という言葉を使ったのでしょうか。ケンペルは鎖国論という題を使っていないのです。志筑は「・・・おのれが仮に設けたる」と述べているのですから、彼 が発明したのです。


ケンペルは日本誌で何を言っているのかを、参考資料で読むと、

「当時の日本が全国を鎖国して・・・敢えて異域の人と通商せざらしむ事は実に所益あるによれりや否やの論」という論旨で、鎖国の是非を考察しているようです。鎖国は天理に反すると一般論を述べ、例外の国として日本を挙げ、いかに日本の鎖国が妥当であるか検証しているようです。早い話、日本は鎖国状態でも、さほど支障がない体制であるという論になっています。

この志筑忠雄の鎖国論は、またしばらく眠ってしまい。半世紀の後(1850年、幕末は嘉永3年、12代将軍家慶の御代)に黒沢翁満(おきなまろ)が、発禁処分になった「異人恐怖伝」という題名で刊行されました。鎖国論が異人恐怖伝になったのです。
異人恐怖伝に変身とは、まるで伝言ゲームを思わせるような展開です。

ケンペルから数えて150年ほどかかった伝言ゲームです。

また、参考資料によると、この鎖国論の写本が日本で広く読まれていたようです。日本においては鎖国が通ってもおかしくないのではと言う検証の書物が、異人恐怖伝になり発禁の憂き目も喰らうのです。

 それから伝言ゲームは続きます。伝言ゲームを広めたのが大田南畝(蜀山人)と言われます。鎖国論に序文を書き宣伝につとめたようです。また、松平定信は鎖国論を必読の書としておりました。そして参考資料には、攘夷の最も盛んな文久年間に、この鎖国論がどう紹介されたのかは載っておりませんでした。

  鎖国という言葉は、西洋に対する警戒心・畏怖心をあらわすイメージを代表しているのでしょうか。どうも日本人の海外に対するもやもやした不安をすっきりさせたいという思いを表すのが「鎖国」そして「攘夷」のような気がします。

伝言ゲームの鎖国は最終的にどのような意味になったのか、そして攘夷と結びついたのでしょうか。


参考資料:井田清子、ケンペル「鎖国論」写本を読み継いだ人々、岩波書店「思想」No.800

2006.03.03