No73. 英国外務省は幕末日本をどう見ていたのでしょうか
2007.12.12


攘夷が崩壊して来ました。
痛いめにあって攘夷を捨てた薩長と危機感で攘夷を捨てた幕府となるようです。


 慶応元年9月3日(1865.10.22)、日本に駐在する英国公使パークス宛に、英国外務省ラッセル外相からの訓令が横浜に届き、翌日パークスが受け取りました。この訓令の日付は、1865.8.23(慶応元年7月3日)ですから、横浜到着までほぼ2ヶ月を要しています。

訓令の内容を見ると、幕末日本の攘夷に矛盾したような動きがあからさまになってきます。

 英国政府に送られる種々な報告などを総合・分析した英国外務省は「日本で大規模な社会革命が発生しており、その結果内乱がおきるかもしれない、という結論にみちびかれる」との見解です。この結論が導かれた種々な報告などは、情報伝達期間を考慮して、慶応元年5月以前の事件に関したものになりますが、3年ほど遡ってどのような事件があったのか主な事件を表にしました。

文久2年1月15日 (1862. 2.13) 坂下門外の変(老中安藤信正が襲撃される)
文久2年2月11日 (1862. 3.11) 将軍家茂と和宮の婚礼(和宮降嫁)
文久2年4月23日 (1862. 5.21) 寺田屋騒動(寺田屋事件)
文久2年5月 9日 (1862. 6. 6) 遣欧使節団がロンドン覚書調印
文久2年6月10日 (1862. 7. 6) 攘夷勅使大原重徳が将軍と対面
文久2年8月21日 (1862. 9.14) 生麦事件(英国人殺害)
文久2年9月21日 (1862.11.12) 朝廷は攘夷を決定
文久3年5月 9日 (1863. 6.24) 生麦事件、東禅寺事件の償金を英国に支払う(初回)
文久3年5月10日 (1863. 6.25) 長州藩が下関通行の米国艦を砲撃
文久3年7月 2日 (1863. 8.15) 薩英戦争勃発
文久4年1月17日 (1864. 2.24) 英国代理公使ロンドン覚書破棄を幕府に通告
元治1年4月20日 (1864. 5.25) 朝廷は庶政幕府委任の朝旨を下す
元治1年7月19日 (1864. 8.20) 蛤御門の変(攘夷の転換開始?)
元治1年7月24日 (1864. 8.25) 幕府はパリ約定破棄を英仏米蘭に通告
元治1年8月 5日 (1864. 9. 5) 下関戦争開始(英仏米蘭艦隊の下関攻撃)
慶応元年5月16日 (1865. 5.16) 第二次長州征伐軍が江戸出発
慶応元年7月 3日 (1865. 8.23) ラッセル外相訓令の日付

上記の事件に関する種々な情報が英国政府に届き、これらに基づいてラッセル外相の訓令が書かれているはずです。


ラッセル外相の訓令を要約すると、

○総論

日本で大規模な社会革命が発生しており、その結果内乱がおきるかもしれない、という結論にみちびかれるが、その原因は諸外国との間に生じた新しい関係と思われる。
将軍(幕府)と外国との間で結ばれた条約とその結果の交際が、日本の状態・幕府や大名の意見や政策に根本的な変化をもたらしたようである。英国政府の見解がパークスの観察と一致するか知りたいので実情の確認をお願いしたい。

○日本の政治形態

日本は幕府の鎖国政策により保持されており、この幕府という政治形態が天皇と将軍の間に複雑な関係を作っている。
諸外国との交際が緊密になるに従い、日本国民代表は将軍であるという認識であったが、将軍より高次な権力が存在し、将軍の権威は天皇より委任されたものであること、位階において将軍よりも高位にある強大な封建諸侯の存在することが判明した。この封建諸侯は将軍が服従を強制する手段を持っているときだけは、服従するという存在である。
このため、日本人の中でも、将軍と諸外国間で結ばれた条約は天皇の批准が必要という意見と条約締結権は将軍にあるという意見(薩摩藩主)など、矛盾にみちたさまざまな意見がある。

○幕府の対英国姿勢

幕府は条約の義務を履行する意志を表明してきたが、同時に完全に履行できないとも言ってきた。その理由は二つあり、一つは外国人を嫉妬と嫌悪の眼でながめる日本国民の反対であり、もうひとつは、外国交際に反対し、しかも将軍の強制力が及ばない有力な大名の悪意である。
下関砲台破壊の後、幕府は下関の開港か賠償金支払いかの選択があったが、幕府は賠償金の支払いを選択した。(英国は開港を希望している)

○薩長の対英国姿勢

薩摩と長州の両藩主は鹿児島と下関が破壊されると、ただちに友好的になり、使者を欧米諸国の駐日代表のもとに派遣した。
有力大名側の主張は、外国人を攻撃したのは将軍の命令であり、外国交際に反対ではなく港を開く用意がある。これができないのは将軍が妨害しているためである。将軍は外国貿易を独占し、有力大名に外国貿易の分け前をあたえまいとしている、と言っている。

○英国の対日本姿勢・観察

英国政府は幕府が直面している困難を考慮し、新潟と兵庫の開港、大坂の開市の延期に同意した。また、幕府の要請により日本のある港において、英国人が貿易に従事する権利、条約により与えられた権利の主張を差し控えてきた。そして、幕府が開港ではなく賠償金を選択した要因がなんであれ、幕府が危険なものであるとしているかぎり英国は条約上の権利の行使を一時停止した。

外国人殺害と長州藩の外国船砲撃が幕府の主張(有力な大名の外国交際反対)を裏付けていると思われるが、しかし、薩英戦争、下関戦争後の薩長の立証(最善の友好的な関係を切望、青年の英国留学等)される友好的態度は幕府の言っていること(有力な大名の外国交際反対)が真実ではないのではという疑問を抱かせる。

現在、幕府にとって危険と思われたことは事実上存在せず、外国貿易のために開港することは大名や日本国民に満足をもって迎えられると思われる。従って、主要な大名が英国貿易のために港を開く用意があるのであれば、不十分な危険根拠にもとづいて英国民が港から排除されるのを黙視できない。


ラッセル外相の訓令の眼目を簡単に言うと「徳川幕府の言い分は正しいのか確認して欲しい」、になるようです。特に幕府が開港ではなく、賠償金支払を選択したことは英国政府から見れば、何か胡散(うさん)臭いものを感じているのかもしれません。

朝廷からの圧力で意に反して攘夷を宣言せざるを得なくなった幕府、そして、薩英・下関戦争の結果で攘夷を捨てた薩長という構図です。薩長は朝廷に対して攘夷廃棄をどのように説明したのでしょうか。また、朝廷は薩長に対して攘夷実行を要請したのでしょうか。

痛い目にあって攘夷を捨てた薩長と危機感で攘夷を捨てた幕府(徳川家)となるようです。
幕府の方が上でしょうか?


参考資料:英国策論、遠い崖3 萩原延壽、朝日新聞社。日本史年表、日本歴史大辞典編集委員会、河出書房新社。

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