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No72. 幕末日本の鎖国は何を閉ざしたのでしょうか。No.3
2007.8.28/2008.7.22
徳川幕府崩壊の原因は鎖国であった、と述べている人がおります。
これによると幕府は鎖国により金詰まりとなり、自ら動脈を閉じてしまったようです。
軍艦奉行として咸臨丸で勝海舟らと太平洋を横断した木村喜毅(摂津守)が後に「笑鴎楼筆談」として残している談話の中で「府庫の欠乏は鎖国の結果なり」、「国帑(国の金庫)空乏し天下を凋弊せしめたり」と述べております。
木村摂津守喜毅によると、
幕府財政が欠乏状態になったのは、5代将軍綱吉公、6代将軍家宣公(1680-1712)辺りであると言う人が多いが、この時期に悪貨を鋳造したこと、江戸城の種々な費用も前代を超過するほどになっているのは事実である。
しかし、3代将軍家光公(1623-1651)の頃からその兆しがある。
足利幕府では、戦いの費用が多大になっているにも関わらず、足利義満が金閣寺を、足利義政は銀閣寺を建てているが、財政が欠乏状態になったとは聞かない。織田・豊臣の時代でも戦乱が頻繁にあったにも関わらず、奢侈を喜び、財政欠乏の話は聞かない。これは幕府や西南諸国が明国との交易があったためではないか。
徳川家康の時代も御朱印船による交易が盛んであり、税額利潤は相当のものと予想される。明国より輸入したおびただしい永楽銭が民間に流通していることが、これを証明しているのではないか。
しかし、キリスト教を禁止することを目的とした交易中止(鎖国・国交断絶?)により金の流入は細り、交易相手もオランダ、中国に限られ、輸入品は「奢美無益の玩物」となり、これに金を充て、前とはまったく反対になっている。(要するに貿易収支は赤字に転落したようです。)安政六年の開港までに相当な金の流出があり、この開港でさらに前代未聞の金の流失があるのです。
元軍艦奉行木村摂津守喜毅(木村芥舟)は、徳川将軍の奢侈が幕府崩壊の原因であるとの論を「秋毫の末を察して輿薪を見ざる(木を見て森を見ずと同意でしょうか)」と言っております。
また同じ「笑鴎楼筆談」で木村喜毅は、こうも言っています。
徳川幕府の始めは海外交易が盛んであり、我が国威を損なうことなく利益を得る政略は後世が及ばないところである。島原の乱以来、一隅に雌伏することになったのは、キリスト教の蔓延を恐れるあまり通商を拒否してしまったことにある。
ペリー来航の時、幕府初期には海外通商が盛んであったことを知るものは一人もおらず、儒者・国学者も良い前例があるのにもかかわらず唱える者もなかった。おどろいて血迷ったか、あるいは迂闊で、おろそかにしたのか笑止の極と言うべし。
上記は明治になってからの話で、攘夷熱が最高潮の時期には言い出すのははばかりがあるでしょう。攘夷浪人が闊歩する時代では、学者連中もおとなしくしているしかないのです。
攘夷思想は相当強烈で、独裁国家の思想統制ではなく、
精神的支柱である朝廷の攘夷意向が思想を強く統制しているようです。
鎖国が幕府を崩壊させたという論は、今まで聞いたことがありませんが、その筋では議論されているのでしょう。
鎖国は金の量で計測する黒字の貿易収支を消滅させた政策で、幕府の金庫は細り、ついにお金が底をついてきて、何もできなくなった。反面、密貿易(幕府以外の貿易と考えても良いと思います)で利を得た西南諸藩が台頭してきたのが幕末なのかもしれません。
このように考えると、幕府は自分で自分の首を絞めたようになりますが、どうでしょうか。
この「鎖国が幕府を崩壊」についての書籍などがありましたら掲示板に書き込んでいただければ感謝します。
以下に「笑鴎楼筆談」の一部を紹介します。
前に述ぶるが如く足利氏以来海外貿易の利を以て大に内地を潤沢せしは相違もなき事実なるに鎖国の法令出しより国勢忽ち一変し長崎唐蘭の交易に至ては得る所失ふ所を償はず国家の財政競はすして終に元禄正徳の間に及ひてはしめて困難の地に達せしは実に当然の勢なるへし然るに議者大勢の在る所を察せす二公(5代将軍綱吉公、6代将軍家宣公のことでしょうか)か奢靡を好ませられたるにより国帑空乏し天下を凋弊せしめたりとは思はざるの甚しきなりこれ所謂秋毫の末を察して輿薪を見ざるの類といふへし
参考資料:旧幕府(笑鴎楼筆談)マツノ書店