No71. 江戸城大奥を去る婦人と残り香
2007.1.15


江戸城の無血開城の前2日の間に大奥の主な女性たちが、それぞれの感慨を持って城を後にしました。
彼女たちの気持ちが安らぐ居場所はどこなのでしょうか
そして、残り香はどんなものだったのでしょうか。


江戸城の無血開城の直前の話しです。

慶応4年4月9日、静寛院宮(和宮、家茂の正室)・実成院(家茂の生母)が土御門藤子らの侍女と共に江戸城を去り牛が淵の清水邸に移り、翌日10日、天璋院(篤姫、家定の正室)と本寿院(家定の生母)が一橋邸に移りました。

ご両人とも伴侶(将軍)はすでに他界しておりますが、「徳川家」は存続しております。

徳川家の夫人の立場は残っておりますが、ご両人ともお子さんがいないのです。

静寛院宮は京都からの嫁入り、天璋院は薩摩からの嫁入りで、江戸城を去るにあたり実家はどのように対処したのでしょうか。

高柳金芳著の「幕末の大奥」(雄山閣)によると、
天璋院は「当将軍(徳川慶喜)は謹慎中、先を見届けず城を明け渡すのは甲斐なき者どもなり。われ入輿の折は江戸城で死ぬるまでの生涯を送る覚悟であった。身不肖ながらここに在るからは、いっかな明け渡し申すまじ」と江戸城を去ることを拒否していたようです。

やむなく立ち退きせざるを得ないとき、御休息の間、御化粧の間などの飾りつけはそのままとし、壁に雪舟、探幽筆の三幅対の軸を掛け、床に金銀の鶴亀、あるいは金銀製の万年青に珊瑚八分玉の実をつけたものを、七賢人を彫刻し金の象嵌を打った銀瓶へさしておいた。また違い棚には梨子地の硯箱、香道具一式、古今集、千載和歌集、この他蒔絵の碁盤など、そのままに据え置いたといわれる。この処置は、官軍に徳川の威光を物見せてやろうとするものと書かれております。

天璋院は思い出の品物を持っていかなかったのでしょうか。思い出がつらいものであればしょうがありませんが……

また、天璋院は実家の島津家よりの手当て年三万両を断ったようです。西郷隆盛が直接受け取りを依頼しても断ったと言われています。そして最後の居場所は、千駄ヶ谷の徳川家屋敷に落ち着き、47歳で死去しました。


さて、将軍家茂の正室和宮(静寛院宮)の場合は、

家茂の死後すぐ、慶応2年8月18日に宰相典侍庭田嗣子は橋本実麗に和宮を京都へ帰したいと伺うのですが、家茂の葬儀が終わっていない時点での帰京は、さすがに、断られました。

和宮は帰りたい一心でしょうか、慶応3年4月28日にも自分から橋本実麗に書を送り京都戻りを依頼しております。

さらに、帰りたい心は、三度目の帰京願いを、徳川家の処分が決まらない時期に橋本実麗に送っております。家を守るはずの人が帰りたい帰りたいですから、旧幕臣から見ると、実に情けないように見えたでしょう。

そして、ついに和宮(静寛院宮)は明治二年正月に徳川家を去り京都へ戻りました。京都へもどる前、明治2年正月11日、和宮は別れの挨拶のため天璋院を訪問しておりますが、このとき、天璋院は「一旦降御嫁ありし上は、いかなる御不自由ありとも致し方なきを、今更京都へ御帰りあるは情けなき御心様なり」と述べたと言われます。

女性が嫁ぐということは、その「家」をやりくりし、そこに骨を埋める事であったようです。「お家」を存続させるには跡継ぎが必要で、跡継ぎがない場合は肩身の狭い思いがあったように予想します。くつろげる場所がないのです。

天璋院、静寛院宮(和宮)とも跡継ぎをもうけることができませんでした。くつろげる居場所がないはずです。二人が去ったあとにはその香が残ったでしょう。

天璋院は徳川家へのこだわり・忠義の香を残し、静寛院宮(和宮)は「空蝉の唐織ごろも・・・」を残したのではないでしょうか。

「残すべき家」がある場合の話しでした。


参考資料:
幕末の大奥 高柳金芳(雄山閣)、和宮(物語と史蹟をたずねて)遠藤幸威(成美堂出版)
アニメの模様は打掛、白綸子地菊葵桜七宝繋模様染繍(皇女和宮(幕末の朝廷と幕府)江戸東京博物館)

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幕末期の藩の地図があります。?T?C?g?§????????‰??????B???????????????g?b?v?y?[?W?????B????”N?\??”????????B???j???H?w“I?????????????????????¢?????B 幕末関係のポータル(玄関)ページです。