No.68 新選組が会津預かり武装集団となった背景は
2006.03.18


新撰組(新選組)が生まれたのは、その時代特有の要求があって、
それに応える人々が居たという、その時代の流れを形作る必要な条件が見事に揃ったためと思われるのです。


新撰組が会津藩預かりとなった文久3年は倒幕・佐幕の色合いが、暗殺など明確な態度表明ではっきりして来た頃です。

 なぜ倒幕・佐幕か、簡単に言えば「幕府は攘夷を実現できなかった」これは「とんでもないことで、日本の恥である」として、幕府を倒してしまえという人と「攘夷はともあれ、積年の恩義ある徳川幕府を倒すのはいかがなものか」、という人に別れたのです。この裏には感情的攘夷と対外通商による実利、海外列強への警戒等、種々な思惑が、それぞれの階級に横たわっているようです。

 新撰組や後の新徴組の母体である江戸浪士組が大挙して上洛する直接的なきっかけは、文久2年5月の薩摩藩護衛を従えた勅使大原重徳の東下です。この大原重徳が幕府に要求した三ケ条の中に「将軍の上洛」があります。将軍が上洛して朝廷と共に国家の治平を討議して、速やかに蛮夷の患難を払うことが必要との勅旨です。要するに国を挙げての攘夷です。


 現在のグローバルな観点から見れば、「島国根性丸出し戦略」です。戦略としての攘夷は志士たちをはじめ、多くの人々に浸透していたようですが、その戦術はどうでしょうか。具体的な戦術的議論がなされたのでしょうか。オランダ、中国、朝鮮国は攘夷の対象から外すのでしょうか、それとも別な海外戦略を持つのでしょうか。なにはともあれ、朝廷側は、政治の最高責任者に攘夷を約束をさせたい一心に見え、約束さえさせればひとまず安心というような気配です。その後になにが起こるのかは別途先送りかもしれません。


 勅使大原重徳の東下に追い打ちをかけて、ほぼ半年後、朝廷は若い公卿三条実美、姉小路公知を攘夷別勅使として江戸へ派遣し、攘夷督促と親兵設置(薩長土の建白)を沙汰します。

この攘夷旋風の中、あの生麦事件が発生します。
勅使大原重徳に先立ち出発した薩摩の島津久光一行が英国商人リチャードソンらを殺害した事件です。

これで日英関係は緊迫します。また、京都市中では攘夷浪士と呼ばれる輩により親幕派が犠牲となる暗殺が横行します。そして文久2年の12月会津藩主松平容保が京都守護職として上洛します。このような情勢の中、将軍が上洛するのです。護衛は勿論、ご存じ旗本八万騎の登場でしょう、、と思います。
これと並行して京都市中取締要員として浪士選抜が講武所剣術教授方出役松平主税助忠敏に託されました(文久3年1月7日)。
過失があっても改心して尽力報国の志があれば良いというのが募集要項です。政治犯の大赦もやっており、これで清河八郎もお構いなしになっています。多分、京都の尊攘過激派浪人に対抗し、目には目を歯には歯を、でしょう。

さて、江戸浪士隊が京都へ入ったその夜(文久3年2月23日)新徳寺に全員集合、その前でなぜか浪士取締のような管理的立場でもない清河八郎が演説します。幕府の浪士派遣目的である将軍の護衛で上京したが、朝廷のため攘夷の先鋒たらんと。
なんで、彼が、と思う人が多数いたでしょうが、尊王については皆さん異議がありませんし、まして攘夷の先鋒という何とも勇ましい内容を朝廷へ建白するというのですから反対のしょうがないと思います。しかし具体的にどうすると言う話しはないようです。新撰組メンバーも、この建白に署名しておりますので、この煽動的な策謀はうまくいったようです。


この江戸浪士隊に対して期待された役割は (1)将軍の護衛 (2)朝廷の親兵 (3)武力による攘夷 (4)京都市中治安回復、などがありました。
清河八郎は(2)の一端に食い込もうとしたのではないでしょうか。しかし、残念ながら薩摩・長州・土佐と若手公卿の連携が予想以上に強く、食い込む隙がないことが分かったようです。また、朝廷としても、この大人数を養うには荷が重いでしょう。

ここに至って江戸浪士組の立場は微妙なものになってきました。頭取の鵜殿甚左衛門は、清河八郎造反の責任をとって暇を出され、幕府より江戸帰還も命ぜられます。将軍警護の名目で江戸を出発したのですから、少なくとも京都滞在の費用はやりくりがあったはずですが、幕府は最終的に江戸帰還を命じたのです。帰還の理由は英国来襲への備えです。

京都へ来たとおもったら、その足ですぐ江戸へ戻るのです。幕府の政策決定機能が完全にマヒしているようです。幕閣の役割・責任分担が明確になっていないことを露呈していると思われます。

この時期、幕府の最重要課題は生麦事件を原因とする英国の出方のはずです。何せ、アヘン戦争以来、英国の武力行使の噂が強烈ですから、これで手一杯です。江戸では地方へ避難する人が出る有様です。

全員江戸集結・防戦の流れがここにあります。

しかし、この江戸帰還の流れにさからう集団がありました。

新撰組を形成する集団です。この集団の存在は江戸の幕府首脳には、まったくわからなかったでしょうが、京都滞在の幕府首脳には無視できない存在だったようで、在京の老中板倉勝静は京都守護職松平容保に、京都残留組を付属するよう命を伝えております。上司の命令ですから会津藩は「預かり」という形で一応引取りました。まずは預かりという様子見の試用期間を設けるのは常道です。なにせ過失があっても改心して尽力報国の志があれば良いというのが募集要項でしたから。

政治の中心になっていた京都では、討幕につながる活動が公然と計画・実行され、これにともない市中の治安も乱れています。加えて朝廷は将軍に随従して上京した大名等に英国来襲に備えた江戸への帰還を要請しており、在京幕閣は武装集団による京都守護の必要性を強く感じていたはずです。尊攘過激派対策です。

 英国来襲と江戸防衛という流れに、自ら逆らう意志を示し、将軍警護のための京都残留を標榜した新撰組は、京都において力による尊攘過激派の撲滅に邁進します。そして新撰組の名が後世に語り継がれているのです。単なる武装集団ではないのかもしれません。幕末のあだ花とも言われる新撰組ですが、必要な時に咲き、誠を貫き、ほぼ4年で散った集団です。


新渡戸稲造が、攘夷の国(米国)で攘夷の言葉(英語)で著した「武士道」で述べています。

 薔薇(外夷)は桜の単純さを欠いている
さらにまた、薔薇が甘美の下に刺を隠せること、その生命に執着すること強靱にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽ちるを選び、
あたかも死を嫌い恐るるがごとくであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気、すべてこれらは桜と著しく異なる特質である。

この文章は、外夷と、それに対比する日本の特徴を表しているようです。本居宣長の「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」
この日本の根源を、心のどこか片隅に想い起こさせる存在に見えたのが新撰組かも知れません。
そして、今の若い日本人の奥深いところで共感・生き返っているようにも感じます。


参考資料:新渡戸稲造著、武士道、岩波文庫


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