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No.66
幕末日本の鎖国は何を閉ざしたのでしょうか。No.1
2006.03.01
鎖国とは、日本を外国から閉ざすことだと思っておりました。
鎖国とは実際どのようなものだったのかを、
幕末千夜一夜の掲示板から寉渓書院さんのコメントを引用しながら考えてみました。
紺色の文章は掲示板からの引用です
「鎖国」とは、1801年か2年だったか、志筑忠雄(=中野柳圃)が造語した新しい日本
語です(ケンペル『日本誌』中の『鎖国論』)1850年頃に志筑の翻訳書が『鎖国論』として出版され、有名になりました。
特に幕末の知識人たちは、日本は、はるか古来より「鎖国」が国是と思い込んだそうです。
そんな彼らも、オランダと清国との貿易は常識として知っていたし、李氏朝鮮王国と琉球
王国の使節が定期的に東海道を練り歩いていたのは知っていました。歴史的事実はこのよ
うであったにもかかわらず、「鎖国」という言葉が独り歩きをしてしまい、徳川幕府が「国を鎖していた」のだと、今でも多くの日本人は思い込んでいるのです。
オランダ、清国、朝鮮王国とはお付き合いがあったのですが、鎖国と聞くと、この三国を忘れて全部の国と付き合いを拒否したような印象です。どうしてでしょうか。これについて
(topic14_ケンペル鎖国論)を参照下さい。
徳川幕府を開いた徳川家康に鎖国というイメージはありません、家康の海外施策とは、
(家康の貿易許可は)やはり、阿蘭陀王国に対する貿易許可書ではなく、個人宛のものでした。「於らんだ船、日本江 渡海之時 何之浦に・・・」という家康の文書が個人名の4名に宛てて出ています。これは日本側の外交記録『異国日記』(活字本あり)に関連記事があります。家康の発給文書によれば、阿蘭陀船は、本当は、長崎だけでなく、どの港へも入れたはずですが、・・・(日本とオランダ、板沢武雄 至文堂(日本歴史新書)p.107)
徳川家康はオランダ国王に貿易許可書を送ったのではありませんが、オランダ人個人にオランダ船の入港を認めていたようですし、英国にも同じような家康朱印状を出していたようです。
家康の時代は貿易の規模もさほど大きくはなく、国際収支を云々する規模ではないように思われます。外国から物を輸入するということは、その代価を支払う必要がありますが、この代価が幕府にとって大きな比重にはならなかったのではと予想します。言い換えれば、少々高額でも珍しいものを集めるという段階ではなかったのかと予想しています。お金持ちの道楽に近いように思えます。
少なくとも中期頃までは、阿蘭陀は対日貿易で大儲けしていたのではないでしょうか。 すでに早く、五代綱吉の時に年間貿易額に上限が定められ、新井白石が活躍した時代には、 日本側が一方的な入超、つまり金銀の国外流出に耐えられなくなり、貿易額をかなり制限 しましたから。
金銀の流出は国内に大きな弊害をもたらしますが(参考:essay50の幕末も黄金の国ジパング)、これを鎖国状態かどうかという面から見ると、鎖国ではないと言うことになります。日本側の一方的な輸入超過では、正常な貿易形態とは思えません。日本から輸出するものが見当たらなかったのか、幕府が輸出を禁止したのでしょうか。日本の特産品を輸出せず、代価である金銀が国外に流出していたようで、これでは片手落ちです。
そしてオランダとの交易は続きますが、その背景は以下の状況のようです。
江戸末期になって、(オランダの)対日貿易の黒字は難しくなりましたが、商館員の手荷物として持ち込みを許された品物が莫大な利益をもたらし、更に啓蒙の世紀の名残りとしての日本情報がヨーロッパに大歓迎されたので、今更、日本との関係を絶つまでには至らなかった、ということだと思います。
ヨーロッパに大歓迎された日本情報として思い出すのは、浮世絵です。日本の物産を包んだ紙に浮世絵があり、これがヨーロッパでジャポニスム・ブーム(参考:essay43)を 思い起こします。あの画家ゴッホも注目した日本の民衆美術です。この他に蒔絵の施された漆器など細工物が人気だったようです。細工物は日本のお家芸です。
阿蘭陀本国に異変が起きていたことは、幕府関係者も気づいていたらしいのです。
江戸幕府は、日本人の海外渡航禁止と貿易の徳川家独占という意味での「いわゆる鎖国政
策」をとっていただけで、この政策には海外情報の独占も含まれていました。ですから、
数年遅れではあるけれども、ヨーロッパ情報もちゃんと知っていたようです。知っても、何も出来ないし、何もしませんが。
何もしないことについての話しは(参考:essays34
日本の祖法「鎖国」の出来上がり)で紹介しておりますので読んでみてください。
幕府が海外情報を独占していたならば、何もしないことが幕府にとっては都合が良いことになるはずで、下手に何か行動を起こすと、独占情報が外へ漏れ、各藩からの予期せぬ追求、クレームが出てくることは明白です。まぁ、すべて穏便にというのが為政者の常でしょう。
では、鎖国と言われている状況で、幕府はどのように海外情報を入手していたのでしょうか。
中国情報は「唐通事」が窓口になります。オランダ語やポルトガル語の場合は「通詞」、唐話(中国語)の場合は「通事」と書き分けます。
長崎には多くの唐人(中国人)が居住していて、幕初は市内に雑居していましたが、後に 唐人屋敷として一区画にまとめられました。主に、在住唐人の子孫ですが、唐通事が相当 数いたのですが、彼らが唐船乗組員などから情報を得て、報告書を作成していたようです。 もち論、阿蘭陀通詞も同様にオランダ人から聞いたことを書類にして報告していました。
そのような次第で、海外情報は、ちゃんと日本国内に入っていたわけです。 時代が下りますが、アヘン戦争やアロー号戦争などの、ヨーロッパ帝国主義諸国による中 国侵略戦争に清朝が敗北したニュースは、たちまち日本へ伝わり、志士たちが深刻な危機 意識を持つことになったのです。何度も書きますが、江戸幕府は決して「鎖国」していた のではありません。ずっと開国していて、海外情報に接していたのです。
海外情報に接していた幕府ですが、その情報を国内一般に知らせることはしなかったようで、断片的な情報が漏れ伝わったと思われます。モリソンは船の名前であるのに、人の名前と思っていたなどは、民間の情報不足を表す例でしょう。
明治になってもあった情報不足による誤解の例を紹介しています。→Topic15異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい。
情報を隠すと、正しい情報が伝わらず、誤った形で流れることは、今でも良く経験するところです。 まちがった情報が流布するようになると、あらぬ様相を引き起こす可能性が出てきます。正しい情報が得られれば、邪推や誤解が瞬く間に氷解するのです。
さらに海外情報入手のルートについて、
「いわゆる鎖国」政策の実態は、長崎口(ながさきくち)はオランダと清国からのみ渡航 を認め、尚且つ、徳川将軍家の独占が原則です。これは、南蛮(*1)貿易で西国大名が潤っていたことがわかっていたので、それを止めさせる目的です。ただし、清国は正式には「海禁」政策だったので、日本側から見れば民間貿易になり、清国側から見れば非公式つまり密貿易??かも知れません。*1:南蛮とは、当時の日本ではカトリックの国を意味していました。
対馬口(つしまくち)は、江戸幕府が唯一国だけ国交を結んだ朝鮮が対象ですが、貿易の 利はほとんど対馬の宗氏の為でした。その為、宗氏は1万石か2万石くらいなのに、10万石格の大名として処遇されました。
薩摩口又は琉球口は、琉球王国が島津氏の石高の中に含めて領知してあることからわかり ますが、琉球を通じて清国と朝貢貿易でした。ただし、幕府は清国を中心とした「中華型 国際秩序」とは別に「日本型国際秩序」を志向していたので、琉球王国は徳川将軍の「徳」 を慕って挨拶にやってくる目下の国という建前を取らせました。 薩摩藩の密貿易というのは人口に膾炙していますが、これは少し誤解され易い言葉です。琉球からの輸入品も、長崎を通して日本国内に販売されたのです。その額は、幕府によっ て定められていたのですが、薩摩藩が帳簿外で多量に販売したということです。輸入品の 売買は、他の都市では成立しなかったのです。
松前口は、蝦夷南部を領した松前氏を通すもので、アイヌ人との交易です。とはいえ、特 に茶道家が珍重した「蝦夷錦えぞにしき」は北京から沿海州、奥蝦夷(樺太)経由で伝来 したものです。
長崎口、対馬口、薩摩口又は琉球口、松前口が外へ開かれており、日本海と東シナ海が海外へ通じていたようです。太平洋側にはなさそうです。(参考:Essays15抜荷の海、日本海)で、新潟口の可能性を紹介しています。
この鎖国の話しはさらに Essays67に続きます。