No.65 江戸城内は食事どきが情報収集どき
レストラン江戸城 Part2
2005.09.06


江戸城には職員食堂があったと言うお話は、Essays22で紹介しました。
天保12年9月2日には幕府大目付より大名の「お弁当」を食べる場所について
細かい指示が出ています。


大名を監察する大目付は弁当を食べる場所にまで気を使わざるを得ないのです。

政府の中枢が、ここまで細かく配慮する背景が気になります。多分、お弁当をとりまく環境が政治的に無視できない影響があったのでしょう。お弁当の中身までは干渉していないようですが

ここで幕府大目付達書を紹介します。

 近頃、登城した際、坊主部屋で弁当を食べる者がある。今回、御改革がなされ、大目付や佐々木三蔵が改革担当に任命され調査した結果、坊主部屋に入ることを禁止する。但し御礼日(定められた出勤日)は台子(だいす*1)を出すので、これを利用することは差し支えない。
しかし、臨時の登城の場合は台子を出さない。
ただ薬を飲む時はお湯に差し支えがあるので、特別、大広間席、柳の間席の大名には一人登城した時も、台子を出すので、今後坊主部屋へ入り込まないよう話してある。但し、病気・差替の場合は大目付へ断れば坊主部屋に入ることができる。


この大目付達書は、大名と御坊主との必要以上の接触を避ける意図があるようです。

 大名たちには慣れない江戸城ですから、色々御坊主に聞くことがあったでしょう。この場合はどうすれば良いのか、隣の大名はこうしているから同じにしなければならないのか等々。大名としては、お世話のお礼に地元の名産など御坊主に贈るなどになります。御坊主側もあうんの呼吸で、その内、「ここだけの話しですが」という状況になってきます。

坊主達が得ている情報はどのようなモノかを推察すると、安政5年6月25日に、坊主たち(奥坊主、表坊主、御数寄屋坊主)を監督していた徒頭薬師寺筑前守元真が、ときの大老井伊直弼の側近宇津木六之丞に「密書」を送っております。

前日に井伊を詰問するため徳川斉昭の不時登城という御坊主情報収集の対象として絶好の事件がありました。この状況を薬師寺元真が宇津木六之丞に「密書」という形で連絡しております。残念ながら密書の全内容は今、分かりません。ただ、「色々風聞致候得共、何分取留不申候、心配之儀に御座候・・・・」と、色々噂はあるが、注目できるモノがなく、心配である」とあります。肝心な知りたい情報はないようですが、関連した周辺情報はあるとの印象です。そして御坊主を管轄する地位のモノが時に権力者側近に密書の形で連絡する状況があったということで、御坊主たちの収集情報の扱われ方も類推できます。

ところで、台子を出す、すなわち食事用のお膳を出すということは、管理上うまい方法のような気がします。
今風で言えば、団体旅行などで、温泉旅館の広間でいただく朝食で、自分のお膳が用意されているようなもので、もし自分のお膳が見当たらない場合は、参加が認められていないみじめな状況で、自分の朝食がないのです。
お膳のある、なしは有効なわかりやすい識別になります。

現代ではお茶を出すのは、まだ女性が一般的です。「お茶汲み」という卑下したような言葉もありますが、江戸城では男がお茶汲み担当なのです。
江戸城内のお茶汲みを馬鹿にしてはいけません。「老中や若年寄が執務する御用部屋には、夏でも炉がきってあって、そこには数本の火箸がそなえてあった。重要なことを密談するとき、秘密が洩れないことを防ぐために炉の灰に火箸で字を書き、相談を交わした。」と言われておりますが、これなどは油断も隙もない御用坊主対策であったと、大江戸おもしろ役人全集では推察しています。

藤岡屋ばなしによると大名の給仕をする表坊主が300余人もいたとあります。彼らは1ケ所の坊主部屋?なるところに居たのでしょうか。それともある人数毎に割り当てられた坊主部屋があり、配員されていたのでしょうか。この300という数字は大きな数字で、一人の大名宛数人の担当制になっていてもおかしくない数です。300が本当の数字とすれば、幕府組織の運営方法を知るヒントになるのではないでしょうか。

*1:台子(だいす)

台子と言えばお茶の道具として知られております。茶道具を納める四本柱の棚ですが、雛祭りの飾り道具としても見ることができます。これを使って食事をしたようです。


参考資料:藤岡屋ばなし、続集、鈴木棠三、大江戸おもしろ役人全集、歴史読本


目次に戻る

hanmap.gif (2136 バイト)