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No.63
殺伐な京都で新撰組隊士と上方女性のお付き合い
2004.12.28/2005.12.30
将軍家茂の護衛を目的に京都に乗り込んだ江戸浪士隊は、
文久3年3月13日、江戸帰還組が京都を離れ、
京都残留組は京都守護職である会津藩の預かりとなり新撰組(新選組)を形成していきます。
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この文久3年頃は、攘夷思想が大きな潮流として広がり、朝廷より攘夷督促の使者三条実美、姉小路公知が江戸城まで出張、将軍家茂は攘夷のアクションプランを京都へ赴いて報告するはめになってしまいます。 攘夷といっても直接外国人居留地を組織的に襲撃することは出来なかった、あるいはしなかったようで、もっぱら開国した幕府側を責める方法が目に付きます。攘夷として外国人を直接襲撃した人達は個人がほとんでしょう。藩などの公共団体は殆どないようです。 特に京都では幕府側人物に対する暗殺が横行し、京都守護職松平容保が赴任しても鎮静することはなかったのです。 このような殺伐な京都へ腕に覚えのある単身赴任の男集団が乗り込んで行ったのです。 単身赴任の男達は必然的に京都の女性達に眼が行くようになります。新選組の男も例外ではありませんでした。 新選組の男達は上方の女性とどうつきあったのかを、少しですが調べてみました。 |
付き合い方の悪い例からです。
芹沢鴨、平山五郎、平間重助は、男族として反省しきりでありますが。 |
悪いことは続きません、この日この三人は同僚の新選組に襲われることになるのです。
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この三人は悪の代表ですが、新選組組長近藤勇はどうでしょうか。組長は京都七条木津屋橋通(醒ケ井)に一戸を設け、落籍して京都に連れてきた大坂 近藤勇はこの妾宅を仕事にも使っていたようです。同志伊東甲子太郎を暗殺した油小路事件では、彼を醒ケ井の妾宅に呼びだし、泥酔させております。深雪太夫もひと肌脱いだと予想します。 また、この妾宅は近藤一人の宅と言うより近藤側近の新選組隊士が出入りしていたようで、 近藤が伏見街道の藤森神社から墨染の間だで銃撃された日には、元新選組の阿部十郎らが、この妾宅に押し入っております。近藤勇らは不在でしたが。 近藤勇は、深雪太夫と娘に何百両かを渡して自分の死後への対策を行っていたのです。 ある説に、近藤勇と深雪太夫との間の娘は、後に下関で芸者になり、李鴻章との談判にきていた伊藤博文の愛を受けたとも言われております。
新選組を脱走した山南敬助の場合は、芝居にでもなろうかという涙の別れがありました。お相手は島原の角屋の遊女明里(あけさと)です。 新選組十番隊組長だった原田左之助の場合は、京都の町人高嶋屋長兵衛の二女まさ子を妻に娶っております。そして、西本願寺筋釜屋町七条下ルに家庭を持ち、ここから新選組本部へ通勤しておりました。 かの有名な池田屋事件の直後に男子を得、慶応三年十二月に更に男子(同月夭折)を得ました。 原田は伏見奉行へ移るとき、箕で計った二分金ばかりで二百両を持ち妻まさ子のもとへ急ぎ帰り(慶応3年12月11日)、子供の事を幾重にも頼んだようです。これが最後の別れになりました。 |
脱線しますが、当時の日本の妾事情を外国人(英国公使館付医官ウィリス)が評価しております。 遊女がその器具や技芸によって見初められ、廓から男に身請けされる場合には、四千分(276ポンド)ほどの金額が支払われる。 金満家たち、とりわけ商人が、ときどき容姿のよい遊女を身請けし、前記の大金を支払ったりするのである。 すべての遊女の3分の1は、身売りの契約期限が切れぬうちに、梅毒やその他の病気で死亡している。生きながらえた女のうち、ある者は馬丁とか水夫とかのようなかっての馴染み客の妻になったり、僧侶にかこわれたりする。 また、ある女は髪結いは一銭あきないの店主や妓楼の下女として生計を立てる。ときには身内や夫のもとに帰る者もいるが、女が遊廓での奉公期限を終えて身内のもとに帰った時、かならずしも体面を維持する権利を失ったとはみなされず、場合によっては結婚することもある。 日本の売春問題にかかわるものとして、妾をかこうことがごくあたりまえで、なんら悪徳行為とみなされないことを述べておかねばならない。 妻帯者であろうと独身者であろうと、妾を持つ費用を支出することのできる者は、自由に情婦をかこっても体面を損なうことにならない。 しかし、下層階級の者がひとり以上の女を養うために金銭を消費するのは馬鹿げたことだと考えられている。道徳的なことが問題にあるのではなくて、金銭の支出が問題となっているのだ。情婦をかこうことが話題となっても、どの日本人の耳にもほとんど不快感を与えることはないだろう。男の社会的地位に応じて、かれの情婦らの出身階層もさまざまに変化する。日本人の考えによれば、女郎屋の売春婦と個人的にかこわれた情婦との区別は実にはっきりとしている。 以上が先進国英国の医者の感想でした。 |
最後は沖田総司の話になります。
沖田総司がこの世を去ったのは25歳の時と言われております。特定の女性とお付き合いがあったと言う話しはないようですが、ものの本によりますと、「京都のある医者に診察を受けたとき取次に出てきた女性と夫婦になることを考えたが、近藤の説得であきらめる」と書かれております。そして、近藤の甥勇五郎の話では、「ふだんは冗談ばかりしゃべっている男が、この娘のことになると涙をおとして語ったものです」とも書かれておりました。
どんな女性だったのでしょうか、この女性、近藤勇の世話である商人に嫁いだようです。
数人の新選組隊士と上方女性との付き合い方を見てみましたが、
新選組の男達は、お遊び相手として、妾として、そして妻として付き合っております。
新選組が京都へ入ってからほぼ4年の間のお話でした。
さて、薩長等の男連中はどうでしょうか、これは主義主張には直接関係ないよう思えますが....
追加のお話です新撰組の男達は京都ばかりではなく、大坂でもお付き合いがありました。
大坂では新町の遊郭吉田屋で遊びましたが、芹沢鴨は芸妓小寅がお気に入り、永倉新八は仲居のお鹿がそれでした。この小寅さんは芹沢が大嫌いで、相手をせず帰ってしまうという状態。これで芹沢が立腹し、翌日小寅とお鹿は髪を切られてしまいます。
小寅の髪を切ったのは土方歳三、お鹿の髪を切ったのは平山五郎で、芹沢と永倉はそれを見ていたようです。
永倉は後に、お鹿を吉田屋からもらい請け親許へ引き取らせ、世話をして町人に嫁がせたとの話しもあり、気がとがめたのかもしれません。
しかし、芹沢は相当に悪に見えます。お客商売の女性とは言えやりすぎでしょう。お客という立場を傲慢に利用した例で身勝手そのものでしょう。
ついでに永倉新八ですが、お鹿さんの世話をすると共に、京都島原の芸妓金吉(かねきち)と懇意であったという話しや、同じ島原の遊郭亀屋の小常を娶り、娘お磯をもうけたとの話しも伝わっております。このお磯は後に、尾上小亀と名乗る女優になったとモノの本にありました。
参考資料:浪士文久報国記事、新選組日記(木村幸比古)など