No.62 お武家さんが、お米を現金に換える方法と札差
2004.08.18/2006.11.18/2008.6.20


幕府の禄を食(は)む(俸禄を受ける)旗本や御家人の給料は原則的にはお米なのですが、
お米を頂いても、貨幣経済ですから、現金に換えないと普段の生活に困ります。
頂けるお米の量とそれを換金するときなど、色々な制度やら思惑やらがあるようです。


Essays61からの続きです。

浅草の米蔵から旗本たちに米が支給されるのですが、お米を頂いても、現金に換えないと普段の生活に困るのです。
旗本たちも領地を持って知行取の者と、天領から年貢として浅草の御蔵に保管されている蔵米を給与される切米取(蔵米取)があり複雑です。

さて、お米を現金に換える仕組みがどうなっているのかに注目ですが、換金の際の要点は、
(1)旗本それぞれが受けとる地位に比例した支給額と米・現金の支給割合。
(2)現金への交換比率
(3)現金への交換手段(札差)

以上の3つが要点かと思われます。支給されるお米の量的な話や、物流的な話は Essays61を参照下さい。

米搗き(精米作業)の図です。三谷一馬さんの江戸商売図絵、彩色江戸物売図絵を参考に画きました。まず、 家禄(給与額)ですが、知行取の場合、これは旗本などの領有地(百姓付きの土地)の米の公定収穫量が基礎になります。いわゆる検地によって決められた「 石高」と称されるもので、玄米の量で表されて「高、何石何斗何升何合何勺」となります(玄米の量ですから稲の籾殻はとってありますが精米していないのです)。
この「高」に租税の率
(四公六民など)を乗じて年貢の量が決定されます。この率は、三つ五分物成渡し(知行高の35%)が給与基準のようです。

切米取(蔵米取)の場合、「俵」表示になります。ちなみに1俵は米3斗5升ですから、知行取千石と切米取(蔵米取)千俵は同じ収入となります。

では、豊作・凶作で年貢の量が変わったのかが気になりますが、幕末の頃は「定免法(*1)」と言われる方法でしたので、量は原則として一定ではないかと予想します。
すなわち凶作の年でも、豊作の年でも見直しがない限り同じ年貢の量になります。
この量が旗本 たちに支給される量になるはずです。

*1:定免法と検見取(久米町史)
検見取というのは領主側から田圃の稲のうれた頃検見奉行が村に出張して適当な田を選んで、奉行の面前でその田のうち一間四角(1坪)の稲を刈って脱穀させてその量から段当収量を算出して、租率を決定するものであり、定免という方法は過去数年間の稲の出来具合をもとにして規準の収穫高を設定してそれによって、それより後数年間(3年乃至7年位)検見を経ずに年貢を取りたてる方法、江戸時代中期以後はこの定免法が採用された。

 また、米、現金の支給割合については、先に述べたように1/4から1/3が米、残りは現金と言われております。この比率は幕府のキャッシュフローがどの程度になっているのかにより決まるという財政体質の問題になるでしょう。幕府の御金蔵に現金がどの位あるのかにより決ま ると思います。

では次に 最も気になる現金への交換比率についてです。
お米がどの位の現金になるのでしょうか。これは旗本にとって大変重要な問題です。

江戸城内の中ノ口に米と金の支給割合と米相場が張り出されたのです。例えば、「三分一金渡し、三分二米渡し、百俵に付38両」と張り出され、これを張り紙値段と言ったようです。
「嘉永安政の頃の御張紙相場は百俵30両位であったが、市価は百俵まとめると40両ほどであった」。とものの本にあり、百俵まとめると交換比率が良いようです。

では、知行持ちの旗本はどの程度の給料(年俸)になるのでしょうか。

旗本の中でも上級職である勘定奉行は役高三千石、御役金三百両ほど、下級職の奥御右筆組頭は四百石、御役料(職責手当)二百俵と「幕末の武家(柴田宵曲編)」にありますので、これにより給料を推定してみます。
勘定奉行は千石高
(家禄知行千石で足高二千石、35%の年貢率として)、これはほぼ3,000俵で、市価では1,200両の計算になります。これに役金300両が加わり、年俸で1,500両となり、奥御右筆組頭は役高400石、これはほぼ400俵で、役料200俵が加わり、年俸で240両となります。

ついでに米の価格を平成の現在の米価(某サイトの秋田小町価格、10KGで4,100円)を使って換算してみると、勘定奉行の1,500両は7千6百万円、奥御右筆組頭は1千2百万円となります。勤務時間は一般的には、午前10時より午後2時か3時でしたので、実にうらやましい待遇に見えます。江戸時代は良い時代なのでしょうか。それともインフレ時代なのか、はたまた米換算が不適当なのでしょうか。 でも、この収入で家来を養うことを考えると果たして......。

度量換算:100俵で35石、1俵は玄米3斗5升(約63リットル、約50KG)
          100俵市価40両→5,000KGが40両→1両は125KG→1両は米換算で51,250円

     1俵を50KGとして20,500円

さて、話をお米の現金交換手段に移します。

江戸の旗本連中は、幕府より「蔵米受取手形(切米手形)」を受けとり、これを持って浅草御蔵に行って手形の額面量のお米を受け取り、次いで、この米を御張紙相場を参考に米問屋に買ってもらい現金とするのが基本的な手順と思われます。 

米問屋で換金するのですが、前述(Essays61)の旗本約2900人が一度に問屋へ来ることはないと思いますが、問屋の店先には列が出来たようです。店先にある大きなわら束に切米手形を竹ぐしに差して(差し札と言います)、自分の番を待っているのです。何もすることがなく待つ人、何か別な用事をする人など、待つというのはいつの時代でも間がもてません。多分そこで、問屋が手数料(札差料と呼ばれる)をとり、「お金を自宅へ届けるサービス」を始めたと類推します。これを商売とする人が現れ、「札差」と呼ばれています。そして、「札差株仲間」を形成し独占体制を構築することになります。

手数料は蔵米100俵につき金2歩(分)、米問屋に売る手数料を100俵で金1歩(分)が相場のようです。100俵市価40両ですから、手数料合計は1.875%(1両=4分)になります。

前述のように旗本への米の支給は、年間合計約62万俵支給(現金換算24.8万両)と言われますので、年間の手数料は4,650両となり、勘定奉行の年俸2,985両をはるかに上回る額となります。本当にこのような高額なものであったのか気になりますが、天保14年12月14日に江戸で蔵米取りを救済する目的で借金棒引きにする「無利息年賦返済令」が発令された時、浅草の住友の札差は年間1,500両から2,000両近い収益をあげていたとものの本にありますので、札差は手数料でこのような高額な収入を得ていたようです。(正確には当時の札差の人数の調査が必要で、この人数と各札差の扱い量で全手数料を分けることになります。)

札差は米を現金に換える仕事の他に、金貸し業もやっておりました。

地方(じかた)知行 の旗本・御家人は年貢を担保に前借りをしている状況でした。借りたお金は返さなければなりません。札差はこの貸し金で相当に儲けていたようで、儲け方の例を紹介します。

旗本が札差よりお金を借りる場合、借金証文が作られます。これには保証人が必要ですが、
この保証人に札差自身がなり奥印を押します。旗本は保証人(=札差)に礼金(奥印金と言うようです)も支払うのです。また、札差は返済期日(通常は俸禄米支給日)前に奥印金の返済を要求しますが、旗本連中は通常返済がすぐ出来ません。したがって、元利合計をまた借りることになります(雪だるまです)。この時、旧借金の最後の月を新規の借入の最初の月に組み入れるのです、すなわち、この月は利子が二重に取られるのです。
これを月踊りと行ったようです。誰が名付けたでしょうか洒落た名前です。

ここまで札差にやられてしまっては、旗本としては対抗手段を考えなければなりません。

旗本側にとって幕府が出す「無利息年賦返済令」のような特赦が良いのですが、これを連発するわけには行きません。札差(蔵宿)に頼まず、自ら浅草御蔵に出かけていって蔵米を自分で受けとる方法(直取・じきとり)があります。札差連中は良い顔をしない でしょう、いやがらせも予想されます。そこで自ら出向くかわりに、浪人ややくざに依頼することになります。彼らは米の受取の他に、札差をゆすり、金を借りることも請け負うことになります。彼らのことを蔵宿師(宿師)と言っていたようです。これに対抗して札差側は刺青(いれずみ)の若衆や対談方(口八丁、手八丁の浪人など)を雇って対抗します。こうなると泥沼です。お決まりの小競り合いが始まります。

火事と喧嘩は江戸の華と言われますが、ここにも喧嘩の種がありました。


参考資料:江戸の札差(北原進)、札差(鳶魚江戸文庫18)、幕末の武家(柴田宵曲編)、江戸のアイデアマンたち(新聞連載、五郎丸延)、江戸時代の先覚者たち(山本七平)、久米町史 、歴史読本 大江戸おもしろ役人全集('89-11)、江戸巷談藤岡屋ばなし続編(鈴木棠三)


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