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No.60
天保6年 日本に工場制手工業が芽生えましたが、
2004.02.06
天保6年2月
、工業立国日本の走りである工場制手工業(マニュファクチャー)が芽生えましたが、
天保6年に芽生えたという工場制は製造生産性を追求する舞台であり仕組みですから、
これは工業立国日本のルーツを探ることになります。
「史料による日本の歩み」近代編(吉川弘文館)によると、上州桐生領野州足利領にマニュファクチャーが起こったとあります。
上州桐生領、野州足利領は山間部であるため田畑が少なく、砂地であり農業には適さないと云われておりました。この土地柄では百姓渡世は難儀なものとなります。年貢米経済の時代、田んぼが少ないということは別な手段で年貢を納めなくてはならない状況がありました。
桐生・足利地方は昔から農業の傍ら養蚕、紙漉(かみすき)、絹織物が行われており、特に
桐生では絹が年貢として扱われていたようです。「上州桐生領野州足利領機屋共始末書付」
昔は片手間で養蚕をやり絹織物にしておりましたが、天保の頃から、「近年次第に繁昌仕候」という状態になったのです。
各地より絹糸の需要が増え糸問屋も多くなって来ました。
問屋制手工業と呼ばれる仕組みが育ったのかもしれません。
絹織物の需要が増えますと、これを作る道具(生産設備)が必要になりますし、製造技術が要求されます。また、量的拡大にともない原材料の調達、製造、そして販売の分業も必然的に発生してきます、付随して物流の効率化も生まれて来ます。量的な拡大は調達、製造、販売そして物流の個別要素を担当するだけでも生活できる状況が出て来たのでしょう。ここに生産技術が生まれることになります。生産設備が高額になると産業資本が必要で、資本家という分野もまた生まれてきます。
技術には製造技術(マニュファクチャリング)と生産技術(プロダクション)があり、
日本は特に後者が優れていると云われている。
需要の拡大は、必然的に製造元(機屋)が需要に応えるべく職人(特に女性)を大勢雇用することになり、製造場所を集中する、分業を行うなどマニュファクチャー(工場制手工業)制に傾いて行きます。その結果として生産性は大きく向上することになります。加えて、地元の労働力では足りず、各地より人を集め、借家渡世も増えてきます。企業城下町が形成されてくるのでしょう。
その結果として、「猶々農業を疎み唯々商ひ糸機等之渡世のみ専一に心懸候故」、「次第に田畑衰微に相成、年々手余り荒地等出来仕候儀、歎敷奉存候事」となったのです。
武家娘と群馬富岡製糸工場
米経済の世界とは違った世界が出現することになります。言い換えれば付加価値の低いお米から付加価値の高い絹や紙などに生産(産業)が移行する気配が出てきたと言えるでしょう。
そして、天保13年10月に至り、幕府は「近年男女共、作奉公人少く、自然高給に相成、殊に機織下女与唱ひ候者、過分之給金を取候由、是又余業に走候故之儀、本末取失ひ候事共に候、元来百姓共は、商向当座之利潤を以営候町人共とは格別之義に候条、是等之儀能々辨利致、一致に農業出精、銘々持伝へ候田畑に不離様専一可心懸候」というようにマニュファクチャーの傾向を禁止するのです。
幕府は百姓の利潤獲得を良しとせず、農業出精の方針です。幕府のお侍さん達は、お米が給料ですので農業出精がないと大変なことになるのです。ようするに幕府のお侍さん達が生活できなくなるのです。もっと具体的に言うと、お米の量に比例した現金をもらう仕組みですから、お米がないと現金が手に入らないのです。大変です。
お米経済から脱皮しない限り付加価値の高い製品のマニュファクチャーが育つ環境ができないのです。
お米の生産高により武士階級の収入が決まるのです。武士階級は生産手段(付加価値生産手段)を持たないのですから、先が見えています。より付加価値の高い産業が生まれ育つ気配が出てきたとき、現体制がそれを潰すための作用をしたことになります。いつの時点で、どのように体制が変わり、米経済が潰れていったのかは非常に興味があることで、いずれ調査したいものです。
参考:上州桐生領野州足利領機屋共始末書付「史料による日本の歩み」近代編(吉川弘文館)