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No.59
蒙古襲来以来の外国軍攻撃
2004.02.29
元治元年八月(1864年9月)英仏蘭米の
多国籍軍が長州に来襲したのです。攻撃の大儀名分は以下のような下関海峡を舞台にした長州藩の攘夷行動が直接的だと思いますが、英国は別な思惑があるようです。
| 文久3年5月10日(11日未明) | 攘夷期限 下関通航の米国商船ペンブロック号を砲撃 |
| 文久3年5月23日 | フランス通報キンシャン号を砲撃 |
| 文久3年5月26日 | オランダ軍艦メジュサ号を砲撃 |
| 文久3年6月 1日 | 米国軍艦ワイオミングが報復攻撃 |
| 文久3年6月 5日 | フランス軍艦セミラミス号等が報復攻撃 |
上記を見ると、米、仏、蘭は下関海峡にて長州藩より攻撃を受けており、その報復もやっておりますが、英国は攻撃を受けておりません。
多国籍軍には、直接長州より攻撃を受けていない英国が加わっているのです。何故でしょう。
英国は長州攻撃のほぼ1年前、薩摩を攻撃しておりますので、好戦的な国という印象です。
英国が下関攻撃に加わった理由を、駐日英国公使オールコックが本国の外相ラッセルに宛てた書簡の中で知ることができます。
オールコックの書簡の内容の概略は次のようなものです。
英国が下関攻撃を実行した理由は英国の貿易が阻害されたからである、と言っております。幕府が生糸の通商を禁止したことと同時に長州藩の下関海峡閉鎖による長崎通商の停止が下関攻撃の理由
であるとも言っております。
また、オールコックは、下関戦争終了後、ラッセル外相へ、「長州侯は独り長崎港に於ける通商貿易に妨害を与えこれをして殆ど尽滅せしめたるのみならず、大いに敵意をはさみて、横浜に於ける貿易をも閉塞せしめたる儀にして、此の上は横浜より外国人を追払い、而して横浜港を閉じんとしたるは甚だ明瞭にこれあり候。」と報告しております
。
この報告
によると、長州が横浜貿易も閉鎖していることになりますが、相当に大袈裟な、事実とはかけ離れた報告です。オールコックが事実を知らなかったとは言えないと思っておりますが、どうでしょうか。ここにオールコックの政治的な思惑が感じられます。
通商貿易の停止が長州藩攻撃の理由であることを、長州側に通告しているのでしょうか。
この通告があれば長州藩側の対応も違ったものになったはずです。すなわち通商の停止の原因の大きな部分は幕府の政策であり、長州の責任部分ではないところもあるのです。
戦後交渉のやりとりを調べる必要があります。
さて、英国は別な思惑があるようです、という話ですが.............
英国の
当時の日本からの輸出品は生糸が最大で、欧州からの需要も相当なものがありました。病原菌の流行により欧州での生糸生産が大きく落ち込んだためと記憶しております。(ご存じの方教えて下さい)
当時の生糸貿易を調べると、英国の横浜貿易額の約80%を占めています。
この生糸貿易を阻害したのが幕府で、英国の代理公使ニールが抗議したくらいでしたから相当に影響があったのでしょう。これに加えて、文久3年8月18日の横浜新聞紙(ジャパンヘラルドか)にも幕府が生糸貿易にひどい干渉を加えていた様子が載っておりまして、仙台、加賀の貿易も止められたのです。
さらに、「横浜開港資料館紀要12」によると、当時、横浜では幕府が「横浜鎖港」を命じており、生糸貿易は厳しく制限されていた。また、幕府が横浜鎖港を命じた背景には朝廷の存在が有り、攘夷を求める朝廷は横浜での貿易の停止を強く要求していた。このため、開港直後から生糸を出荷していた商人や生糸貿易に参画していた諸藩は幕府や朝廷の強い規制を受け、生糸貿易からの撤退を余儀なくされていた。
とあり幕府の生糸貿易の統制は色々なところに強い影響を与えているのです。
オールコックの言う長州攻撃の理由である、幕府による生糸通商の禁止は、長州側から見れば攻撃される理由はないと言うことになるでしょう。
なお、長州藩の下関海峡閉鎖による長崎通商の停止については長州藩側も一部認めるところだと思いますが、実際の影響はどうだったのでしょうか。
英国の下関攻撃は、他の三国(仏蘭米)とは違う目的が見えてきます。→英国公使オールコックの考えは
下関戦争は諸外国の長州に対する報復攻撃の面ばかりではなく、生糸貿易という国際貿易問題も背景にあると考えるのが妥当です。
下関戦争により生糸貿易の環境は改善されたのでしょうか。
そして下関戦争は長州にどのような影響をもたらしたのでしょうか。
これを知るには戦後処理を見る必要がありますが、この戦後処理に突然、出てきたのが高杉晋作です。下関戦争
後の講和交渉の話は別途調査し紹介します。
ところで、下関を訪れた際、下関海峡を小倉側の高台から見たことがありますが、狭いという印象で、この高台から長州藩が外国船を攻撃した様子を見た場合、良く見えただろうなという印象でした。下関海峡の写真をとりたかったのですが、残念ながらカメラを忘れました。
(下関海峡の写真をこのページに貼り付けようと思っておりますが、下関海峡へ行く機会がありません。)
| 史料(*1)によると当時の英国の考え方を背景にしたオールコックの考え方を知ることが出来ます。 この時代、英国の基本政策は増大する欲望と生産力に対応するため、市場拡大を追求しており、危険があっても、費用がかかっても貿易を探し求めることにあった。そして、市場拡大先は極東なのです。 増大する欲望に応える日本製品は「生糸と茶」と思われ、オールコックは、日本の生糸・茶は英国輸入量に占める比率は少ないが、品質が良く、新しい価値を持つ、と言っております。 また、増大する生産力については、予想ですが、英国の産業革命による生産性の大幅な向上が、需要量を超えた生産量をもたらし、英国の外へ販売せざるを得ない状況になったのでしょう。 |
英国はどのような製品を極東へ販売しようとしたのでしょうか。 この製品を調べることは、英国における生産力増大を実現する機械工業の様子を見ることになります。 そして、オールコックは東洋が変化を嫌うならば、西洋は「利害に関連している所で、革新の性質において軽率であり、攻撃的傾向がある」と言っております。 また、オールコックは日本がヨーロッパ諸国と同様なレベルに急速になるであろうと見ています。攘夷を捨てさせ通商を拡大させるメリットも彼は見ています。 参考史料*1:大君の都,R.Alcock:The Capital of the Tycoon(史料による日本の歩み、近代編(吉川弘文館) |
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2003.12.22/