No.58 天保の改革前夜、幕府は百姓の奢侈をいましめましたが・・・・
2003.08.31


奢侈・贅沢(ぜいたく)を目の敵にしたのが天保の改革(天保12年)ですが、
どんな奢侈・贅沢があったのか、この改革前の贅沢を戒めたひとつの例を拾ってみました。


とある本によると、天保4年10月、幕府は次のような触書を出しております。

「近年百姓たちが食用大奢侈になり、末のものと麁食(*1)を用いず、米穀多く用いたゆえ、自然に米払底し、
高値になり、諸人が難儀に及ぶ」
(*1現在の粗食とは意味が違う?

これは、「米価の高騰は百姓の食べ物が贅沢になり米を多く食べるようになったのが原因」と読めます。本当でしょうか。これは文面通りに受け取れない背景があるのではないかと予想します。

 この頃、米価の高騰の具合をみますと、天保2年における米価は、米1石につき銀83匁2分、3年前で65匁5分ほどですから、30%弱の米価急騰になります。また、天保4年の米価は米1石につき銀77匁3分ー131匁5分で、前年は74匁ー77匁9分とありますので、131/77=1.7倍にもなる計算です。米価に幅があるのですが、人気ブランド米程値上がりが激しいことを意味しているようにも見えます。

確かに米価は上がっております。

この触書の2年前、天保2年正月と2月に米価騰貴のため幕府は町会所で江戸市民に施米を行っており、徳川十五代史によると、貧民に救米(男子に5升、女子、子供に3升)を給い、これが5月まで続いています。救米の配給と同時に、幕府は「米商売之者共、持囲米不致(売り惜しみをせぬこと)」、「素人共儀も、余分之飯米は不貯置、売払可申候」と指示しております。後の指示は、米商人以外にも、米を貯蔵している人がいたことになりますが、一般市民が余分に米を買うことなのか、あるいは米穀取扱商免許があったとすれば、無免許で米を取り扱う人がいて、その人のことなのか、調査したい課題です。

また、天保4年7月16日には米価高騰を理由に廻船問屋が米を他国に搬出することが禁止されました。
禁止をしないと米が価格の高い方へ流れていってしまい、米不足が一層加速されてしまいます。この禁止令が遵守されたかどうか不明ですが、米の量は無限ではありませんので、地域によっては相当な米不足が出たと予想されます。市場価格の高い地域へ米が流れていったようです。(流通が整備されており、流通経費も見合う状況が条件です)
越後柏崎でも米価の高騰で町中の気配が穏やかでないとの記録も残っております。(江戸深川仲町の芸人の日記、天保2年正月24日)

 では、この頃、米の量はどのくらいあったのでしょうか。

天保4年9月、大坂町奉行が当年の作高を予想しております。
これによると、平年に比して、東山道が5割9分弱、東海道は6割7分、北陸道が4割8分強、南海・山陽・山陰道が6割5分、西海道が6割5分、関八州が5割2分強、奥羽3割5分強であったようです。
要するに天保4年は「凶作の年」でした。世に言う
「天保の飢饉(ききん)」なのです。 天保と平成の作況指数比較

この飢饉と言う状況で「近年百姓たちが食用大奢侈になり、末のもの(何 でしょうか?)と麁食を用いず、米穀多く用いたゆえ、・・・」を考えると、年貢米を超える余剰米の価格が高騰し、百姓層の利益が大きくなり、食用大奢侈になったのかもしれないという発想もでき ます。

年貢は定められた量を納めます。昔から五公五民等が言われておりますが、これは年の収穫量(公定の収穫量で従来の実績により決められる)の5割が年貢であると言う意味です。あと5割は生産者である百姓(百姓と言っても土地を持つ本百姓のことでしょう)の裁量が強い性格になるはずです。

飢饉の場合、年貢で納めて残ったお米(自主流通米?)が少ないので、この部分の価格が上がるのが当然です。この時期、奥羽地方は作高が3割5分強ですから、年貢の量にも足りない状況です。大変です。
また、年貢米は「札差」を経由して米問屋へ流れるようですから、米流通の仕組みも合わせて米価高騰の背景を 考える必要があります。

「・・・米穀多く用いたゆえ、自然に米払底し、高値になり、諸人が難儀に及ぶ」という幕府の触は、百姓がお米のご飯を食べると言う奢侈を始めたことが米価上昇の原因であるとの見方は、どうも簡単過ぎるようです。 

蛇足ですが、感覚的に平成の世は3公7民か4公6民(公は公共組織が運用管理の意味)でしょうか。


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