No.50
幕末も黄金の国ジパング
為替レート管理は長崎だけの職務分掌?
幕末から遡り550年ほど前、イタリアはヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロが
日本を「黄金の国」と紹介したのですが、なんと幕末も日本は黄金の国だったのです。
幕末の黄金は小判で、その小判が続々と国外に流出したのです。
小判の流出が全国的に目立つようになったのは、Essays2「小判の買い漁り」で紹介したように万延元年の正月頃と思われます。
小判の買いあさりが起こった原因を考えますと、邦貨と外貨の交換比率を十分な調査研究と情報収集なしに公定したことではないでしょうか。
斜に構えた見方ではありますが、交換比率を定めなければ、後世に記録が残るような「小判の買い漁り」がなかったのではと予想します。
貿易を大々的に展開するには為替レートは重要な役割を果たしますので必要なことは明白ですが、
初めての外国為替の世界ですから、よく分からない状況で、それに長崎からの情報収集だけでは十分で
はない状況で、安政3年9月(1856.10)ハリスとの日米貨幣交換交渉(為替レート交渉)で、メキシコ・ドル銀貨1枚と一分銀3枚の交換、を定めたのが問題の発端です。
交換ですから、日本側の何と、海外側の何が交換されたのかを見ると、お互いに通用量が多い通貨
同士の交換が注目されることとなります。海外側はメキシコ・ドル銀貨で、かたや日本側は一分銀となりました。
重量と銀の含有量 |
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メキシコ・ドル銀貨と一分銀の交換比率をどうするかと言う課題が江戸の幕府で問題となったのは
ペリー艦隊の来航だと思われます。
しかし、外国貿易といえば長崎ですので、ここでは為替問題は日常茶飯事だったと思いますが、どうも長崎情報が正確に江戸へ伝達されていたのか不明なところがあります。長崎では「ドル銀貨1枚と一分銀1枚の交換」であったようです。
為替レートは長崎で決まっていて実際商売が行われているのに、このレートが再検討されて、
かつ悪い条件になってしまったこと、これが問題です。交渉ごとですから難しいのですが、ハリスの要求に反論できる理論武装が出来ていなかったのが敗因でしょう。
国際的な事柄である為替レートを江戸の幕府はまったく管理していなかったのではないかという疑問
が出てきます。為替レート管理は地方的な局地的な長崎奉行あるいは長崎地役人の職務であると見なされていたのではないでしょうか。そうすると長崎奉行から江戸幕府への報告項目にもなかったと見て良いでしょう。例えあったとしても幕閣は興味を示さなかったのではないかと思います。
長崎奉行の政治的位置づけは注目してもよい事柄で、いずれ調査したいものです。
為替差損、為替差益は江戸の幕府にはなんの影響もなかったと思われます。
為替レート管理が最初から幕府勘定方の職務分掌としてあれば、国際金銀比価、為替レート等の実情
を把握できますし、かつ、ハリスとの日米貨幣交渉で見直しが議論され、悪い条件になることもなかったと考えるのは
無理があるでしょうか。
幕閣が日米貨幣交換交渉を行う際、長崎へ海外貨幣と国内貨幣の交換について問い合わせをしておりますが、その回答は「ドルラルの儀、日本にては銀目方10匁につき、日本銀22匁5分、一ドルラルは16匁の積もり」。これは「日本の
純銀の重さ10匁は、日本の通用銀の22匁5分である。ドル銀貨1枚は日本の通用銀16匁の見積もりである」といとも簡単な報告で、
通用銀16匁は日本の公定相場銀15匁(=金1分)と近いので一分に相当します。これより詳しい回答や解説はないようです。
長崎は江戸の幕閣には冷たいのです。
長崎奉行の職務権限・義務として中央政府に為替問題を進言するべきと思われますが、お奉行はどうなさったのでしょうね(当時のお奉行さんは誰だ!!)。当時の長崎奉行を調べますと、水野忠篤、荒尾成充、川村修就、大久保忠寛の4名が関連するようです。在任時期とハリスとの交渉時期から類推すると、進言できるのは、荒尾成充と大久保忠寛の二人のように見えます。
ハリスが異議を唱えるまでは、「ドル銀貨1枚と一分銀1枚の交換」だったのです。
これはどのように
決まったのか、ハリスが異議を唱えて交渉した内容は、
Essays69(ハリスが迫る為替レート改定と吹替入費交渉)をご覧ください。
参考資料:江戸幕府・破産への道(三上隆三)、大君の通貨(佐藤雅美)
2007.01.31/2008.9.20