No.49
時計を逆に戻そうと見せかけた天保の改革
100年前、50年前の政策を再び取上げた老中水野忠邦、彼がやりたかったことは?
天保12年(1841)5月15日、将軍家慶の48回目の誕生日に狙いを定めて「天保の改革」が布達されました。勿論「天保の改革」と名うって公表されたのではなく、将軍の上意として述べられ、老中の覚書きが添えられて申し渡されたのです。
改革を関係各部署に通達、周知徹底する方法はどのようにされたのか、そしてその重みを知らせるための方法はどのようにしたのかは、徳川幕府の情報伝達インフラを確認するには良い例ですので調べたいと思います。
「御政事之義、御代々思召は勿論之義、取分享保寛政之御趣意に不違様思召候に付、
いずれも厚心得可相勤候」(将軍の上意)
改革の基本施政方針は天保から、ほぼ100年前の享保の改革、ほぼ50年前の寛政の改革に戻ることにあったのです。平成の現在(2001年)から100年前は明治時代の後半、50年前は終戦(太平洋戦争)から数年後の昭和時代ですから、通常の感覚からすると「改革」という言葉を使うのは違和感があり、「復古」あるいは「再興」というのがふさわしいのかもしれませんが、世の中「改革」で通っております。
平成の現在で言えば、時間的には平成から昭和・大正を越えて明治へ戻るのです。
なんで昔にもどらざるを得ないのか、老中水野忠邦は何を狙って時計を逆に戻そうとしたのでしょうか。そして、水野忠邦がやりたかったことは、昔の施策で十分だったのでしょうか。それとも、現状把握と将来展望が見えず、他に施策が思い付かなかったのでしょうか。はたまた、昔の権威を利用して新しいことを目論んだ見せかけであったのでしょうか。
天保の改革の具体的施策
首席老中水野忠邦が中心となって実施した施策を一覧すると(水野忠邦/人物叢書、北島正元著の目次を参考)以下のようになります。実行された時間的な差がありますが、この施策は何かを目的とした手段なのか、それとも目的そのものなのかという観点で見てみます。改革と言われるのですから目的があるはずです。改革自体が目的ということもあるでしょうが、そうではないでしょうし、為政者としては寂しいことです。
では、各種施策が手段なのか目的なのかを考えてみます。
1.腐敗した官僚機構の刷新
信ずる政策を円滑に実施するための手段と考えられ、改革により何を刷新したのかが政策の目的を知る手掛かりとなります。
2.冗費節約を兼ねた汚職の防止
事業費の確保の手段及び組織の統制と信頼を回復する手段と考えられ、どの程度の金額規模が確保できたのかを知ることは、
次の事業として何が可能範囲なのかを見積もることも出来ます。
3.倹約令の連発、奢侈品の禁制
為政者が倹約や贅沢禁止を実施する理由は何でしょうか。これらは消費を抑制する効果があり、産業の停滞を招くはずです。
限られた資源の有効活用という観点から見るとなるほどと思われますが、財政的な効果より、風紀上の問題を解決する手段としてとられたのではと思われます。幕府財政の改善に倹約や奢侈品禁制が貢献するのか、これについてはよく分かりません。
4.士風の振興
国内での戦はほとんど考えられない状況で士風を振興するという意味は何でしょうか。
武士は武士らしくと言う意味にとれますが、戦のための準備という意味合いならば、相手は外国にならざるを得ないと思います。将来的に予想される外国との戦争を想定した施策なのでしょうか、それとも生活上の規律の向上を目的としたのかもしれません。士風の振興はやはり何かの手段と考えるのが順当だと思います。
5.大奥の綱紀粛正
これは幕府の費用削減の直接的な手段と考えられ、合せて幕府が襟を正すという効果もあり、幕府組織の信頼性向上ともなるでしょう。これも何かの手段としての性質を持っているでしょう。
6.三方領知替え
これは水野忠邦の発案ではなく、川越藩主松平大和守斉典の提案であり、当初水野忠邦は賛成していません。
しかし、天保の改革の中では水野は許可したのです。川越藩主にとっては目的であったのですが、水野忠邦にとっては何かを
実現するための手段だったと思います。
7.年貢増徴
事業費の確保のための常套手段ですから、これも目的ではなく手段となります。
8.低物価政策、株仲間解散
株仲間解散は早い話が「価格カルテル」という弊害が出てきたのでしょうか。
問屋仲間から冥加金を上納させていたのを、もういらないとしたのです。そして、商品流通の自由化を進めています。
これは一部の既存商人から冥加金を頂くより、もっと多くの利益があると水野忠邦が確信したからだと思います。
株仲間解散は低物価政策の重要手段として採用されたようですし、その効果は見えたようです。
低物価政策をとるメリットが為政者にあると判断したのだと思いますが、なぜか、良くわかりませんがこれも何かの
手段でしょう。
9.江戸湾防備、軍事改革
江戸湾防備そして印幡沼干拓、利根川分水路開鑿、これが天保の改革の中で一番資金がいる事業ですし、
人力の調達も必要条件です。
そして軍事改革、この時期は西洋砲術の振興、これも製造技術・製造設備を賄う資金が必要です。
当時水野忠邦はアヘン戦争の結果を知っておりましたし、英国が次の標的として日本を狙っているとの予感はあるはずです、
そして天保13年7月23日の文政打払令の緩和を指示するのです。外国勢力の様子を見なければという政策が取られ始めました。
ヨーロッパの覇権がその姿をあらわしてきました。
江戸湾防備、軍事改革はヨーロッパの覇権に対抗する手段ではありますが、この性格の重さからして目的になりえるものではないでしょうか。
改革は、為政者がやりたいこと、やらねばならないことがまずあり、それを実施するための予算の裏付け確保、人材確保、環境整備を行う必要があります。
一般に改革ですから相当新しいこともあるはずですが、天保の改革は昔にもどるのです、したがって新規性はほとんどないような施策だと思いますが、時代は動いておりますので、結構新規性のあることも否応無しに含まれてきたと思います。
あまり新規ですと、皆さんがついてこられませんし、反感・抵抗がありますので、懐かしい時代に復古している印象を与えて、時代の流れに対応させたのではないかと考えるのは無理があるでしょうか。
大きな事業(対外防衛対策)を行うために、いかに協力(人的、資金的)を得るか、ないしは協力させるか、これに腐心した結果が天保の改革の施策ではないかと思われます。
天保の改革の目的は、ヨーロッパの覇権に対する予防処置(防衛対策)の意味合いが強いと考えています。
そして天保の改革を整理する歴史回路ではどのように扱うかをこのページにリンクして別に考えます。⇒歴史回路
参考資料:水野忠邦(北島正元、人物叢書)/2002.10.27
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